目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 高度産業社会への胎動
   第三節 苦悩する諸産業
    一 食糧増産と農業
      水稲単収と稲作技術の変化
 農地改革期には、地主的土地所有が廃止されて大量に自作農が創出されるとともに農業団体が民主的に再編され、農業発展の基礎が形成されたが、その結果が直接的に農業生産の増大や農家経済の実質的な発展に結びついたのではない。戦時期にみられた農業労働力不足や生産資材不足の問題は、敗戦直後における大量の帰農者によって農業労働力不足は解消されたが、農業生産資材とりわけ肥料不足は一九五〇年(昭和二五)ころまで続いた。そのため、政府は化学肥料の増産策を強力に推進し、五〇年に硫安工業が国内需要を満たすようになり、肥料統制も廃止された。
 福井県下の施肥量は、四五年に窒素・リン酸・カリ肥料をあわせても六〇〇〇トンにまで落ち込んでいたが、四九年には窒素肥料一万四九三五トン、リン酸肥料八五二七トン、カリ肥料一七二三トン、合計二万五一八五トンと回復し、同年には図47に示すように一〇アールあたり三三〇キログラムと昭和二〇年代最高の水稲単収をあげるまでになった。その後も化学肥料の投入量は急増し、五四年には窒素肥料二万二三三二トン、リン酸肥料九一二七トン、カリ肥料六〇九四トン、化成配合肥料三七三〇トン、合計四万一二八三トンと、四五年の七倍、四九年の一・六倍になった(『福井新聞』54・9・10)。しかし、昭和二〇年代を通じて水稲単収は低迷した。とりわけ、五三年には、六月から七月の異常低温による分蘖不良と八月から九月の低温寡照による稔実不良、さらには台風一三号の風水害によって大きな被害をうけ、一〇アールあたり二五三キログラムと四五年につぐ凶作となった。このため、福井県では国庫助成を要請し、災害に対応した特別措置法による四億二六〇〇万円の融資をうけるとともに、救農国会によって五四〇〇万円の補助が決定された(福井県「冷害による被害状況及び要請事項」五三年一一月、『福井新聞』53・12・15)。
図47 水稲の10アールあたり収量(1942〜90年)

図47 水稲の10アールあたり収量(1942〜90年)

 昭和二〇年代の不作・凶作の直接的な要因は、冷害・風水害・病虫害などであるが、それを誘発したのは、硫安や石灰窒素など窒素肥料に偏重した肥料投入であった。また、当時は端境期の米不足を解消するために早場米奨励金(加算金)が米価に上乗せされており、早生品種に多収性のものが多かったため、早生品種を栽培することは農家所得上有利であった。したがって、五〇年ころには全作付面積の二〇%以上が早生種の農林一号で占められており、この早生品種への集中が被害を激化させることともなった。
 五五年の水稲単収は、昭和二〇年代の低迷から一転し、一〇アールあたり三九八キログラムと大豊作になり、以後持続的に四〇〇キログラムをこえるようになっていく。この要因は、第一に全国的に水稲栽培技術に関する科学的な研究が進展したこと、第二にこれらの科学的合理的な技術を行政側から指導普及する農業改良普及事業が制度化されたこと、第三に指導普及の農民側の受け皿として4Hクラブや農事研究会などの組織がつくられたこと、第四に農地改革によって土地を自己所有としたことにより農民の生産意欲が高まっていたこと、第五に湿田を解消する土地改良がはかられたことが指摘される。以下これらについてみておこう。
 苗代に油紙を直掛けすることが四二年に長野県の農民、萩原豊次によって考案され、試験場での研究ののち、農林省開拓研究所の近藤頼巳によって「保温折衷苗代」と命名された。この保温折衷苗代の利用によって、早期に移植し、有効穂数を確保して稔実割合を高めることが可能となった。保温折衷苗代は、五〇年から政府が温床紙代に補助を支出したために普及が促され、全国的にみても寒冷地稲作の安定・増収に大きく寄与し、東北・北陸地方の水稲単収を上昇させた。
 福井県においては、五三年までは健苗育成を目的として山間部への普及を重点的にはかったが、保温折衷苗代の効果を発揮するための管理技術がともなわなかったためにさほど普及せず、保温折衷苗代の面積は五二年で四五万坪の普及にとどまっていた。しかし、五二年に県農事試験場で増収効果が明らかにされ、さらに二化メイ虫を防除する農薬パラチオン剤が開発され普及したため、五四年七〇万坪、五六年一四一万坪(農家の五二%が実施)、五八年三九〇万坪と急激に普及し、六〇年には八九%の農家が利用するようになった(『福井新聞』56・11・22、『昭和三七年福井県農林水産統計年報』、福井県『普及事業二十五周年記念誌』)。保温折衷苗代の導入により、五四年から五八年にかけて稲の作期は約一〇日早くなり、耐冷性・耐病性が増大して被害をうけにくくなるとともに、労働ピークも分散化されるようになった(『昭和三三年福井県農林水産統計年報』)。
写真80 農薬の散布

写真80 農薬の散布

 本田管理についてみると、害虫防除については前述のパラチオン剤をはじめDDT、BHCなどの殺虫剤が、雑草防除についても二、四―Dが普及し、中耕除草の生育促進効果が科学的に否定されて、害虫防除・除草などの重労働から解放されるようになった。防除作業からの解放は水管理を集約化することを可能にし、よりきめの細かい本田管理を実現した。五五年以降の水稲単収の上昇は、このような新しい稲作技術の成果が結実したものである。



目次へ  前ページへ  次ページへ