一九五〇年代前半の県内中学校の卒業者は、一万五〇〇〇人前後であったが、その高校進学率は四割にみたず、これ以外の中学新卒の就職者は毎年九〇〇〇人から一万人前後にのぼっていた。こうした新制中学校を卒業した青年を対象とする戦後の教育施策は、すでに青年学校が一九四八年(昭和二三)三月で廃止されており、空白状態であった。
このため四八年度以降、山形県や宮崎県では青年を対象とした「青年学級」や「青年講座」を行っていた。福井県でも、四九年度に一般成人を対象とした社会学級に青年層の受講者が多かったことから、五〇年度から「青年教養講座開設要綱」を定めて、対象を「中学校を修了した一般勤労青少年」にしぼった青年学級をおもに農村部に三〇学級開設した(福井県教育委員会『青年学級運営の手引』1)。五〇年七月の県社会教育研究大会では、青年学級を県下全町村で開設するよう決議され、これをうけて五一年度には、一二四学級が開設され受講者は約九〇〇〇人にのぼった。これらを開設主体別にみると、翌五二年度の一四七学級のうち、六割の九一学級が公民館、五三学級が市町村教育委員会によって設置され、学校長によるもの一学級、青年団によるものは二学級であった。
こうした青年学級の普及は全国的な動向であり、五一年五月には、青年団の全国的な連絡組織として結成された日本青年団協議会が、第一回大会でその運営・就学の自由、人件費の全額国庫補助、修了者の資格付与などを条件にした法制化促進決議を行い、文部省・国会に要望書を提出した。文部省も具体的な法制化の準備を進めたが、法案が具体化する段階で、運営委員会の位置づけ・国庫補助要件をめぐって青年団を中心に是非の議論が巻きおこった。翌五二年五月、福井市で開催された日本青年団協議会第二回大会では、激しい賛否両論がかわされ、再採決の結果、青年学級の法制化反対の決議がなされた。それまでCIEが行っていた青年団への指導助言は、講和条約施行後、国立教育研究所付設の青少年指導部の各県地方研究員に引き継がれることになっており、この制度による青年団への統制が懸念されていた。これとともに「青年学級がまだほんとうに青年団の手で運営されていない現状では、法制化は官制(ママ)青年学級をつくる危険をもつ」とする執行部案が最終的に支持されたのであった(『福井新聞』52・5・19)。
翌五三年五月の第一回県下青年大会では、県と市町村教育委員会に対して「青年学級運営に対する自主性確立の為の要望書」が決議され、青年学級開設のための施設の充実、青年学級運営委員会が希望する講師への経費の助成、その他の財政的援助が要望された(「県下青年大会小団会議速報」)。
なおこの大会では、政治活動、護憲問題、沖縄復帰問題などそれまで取り上げられなかった社会的課題が議論され、補助金にたよりがちな青年団財政に自主財源を確立する必要が確認された(『福井県連合青年団団史』)。この時期を『福井県連合青年団団史』では、「青年団としての体質改善と同時に自主性・主体性確立の旗じるしのもとに活動を展開するに至った」時期として位置づけており、青年団にとって青年学級法制化をめぐる議論は、レクリエーションと奉仕を中心にしてきたそれまでの活動をみなおす契機となったといえよう。 |