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 第四章 高度産業社会への胎動
   第二節 地域振興と県民生活
    四 産業教育の振興
      福井大学の整備
 開学当時、福井大学は本部を今立郡神明町の学芸学部内におき、工学部を福井市牧ノ島町に分置した。学芸学部は文学科・理学科からなる学芸部と教育学科・技能科・職業科からなる教育部(一部は四年、二部は教員の短期養成のため二年)で構成され、工学部は建築学科・紡織学科・繊維染料学科からなっていた。当初は教授陣・校舎・設備の不足に悩み(『福井新聞』49・10・9)、事態の打開のため一九五〇年(昭和二五)一〇月にさきの大学設置委員会を福井大学育成委員会に発展解消し、施設・内容などの充実をはかった。織物業界などの運動もあり(『福井新聞』50・4・29)、大学発足にあたり廃止された機械・電気の両学科が設置され、五一年四月から入学生を受け入れた。この年、学芸学部は従来の二部を二科に、さらに五科へと改組を重ね、五二年四月にはそれぞれ小学校課程と中学校課程(この呼称は六二年からそれぞれ小学校教員養成課程・中学校教員養成課程に変更)からなる一部(四年)と二部(二年)に改編した。
 歩みはじめた福井大学の、悲願である校地の統合に大きく立ちはだかっていたのが敷地問題であった。これに解決の糸口をあたえたのは福井復興博覧会(五二年四〜六月)であった。一万六〇〇〇余坪の会場跡地と元からの工学部校地一万八〇〇〇余坪をあわせた約三万五〇〇〇坪が大学の校地とされた(『福井県教育百年史』2)。しかし、大学教育充実のためには建物をはじめ莫大な設備費も必要であった。その多くは地元負担とされたが、おりからの不況などで資金調達に苦慮した(『福井新聞』52・6・15、8・23)。これに対処すべく八月には地元企業の協力をえて福井大学総合整備促進会を結成し、目下の資金難を押し切って一〇月に両学部の統合式にこぎつけた。翌月から学芸学部の第一次移転を開始し、附属図書館もあわせて移転した。以後引き続き校舎・施設の整備が進められていった。五三年には、戦後の教員不足に対処するため設置されていた一年の小学校教員臨時養成科が廃止されたほか、繊維業発展のため工学部繊維工業研究所が開設された。五六年には学芸学部二部の廃止、工学部専攻科の設置がみられた。
 一九六〇年代からの高度経済成長は、国の教育政策に大きな影響をおよぼした。六二年の教育白書「日本の成長と教育」、翌年の「大学教育の改善について」は科学技術の進歩・産業経済の発展に応じ高まりゆく国際競争のなかで高等教育の担うべき役割を高度の学術研究・職業教育におき、これに沿うかたちで大学教育の改編が進んだ。とくに工学部での学科増設・改編があいつぎ、福井大学でも六〇年に応用物理学科増設、六一年の機械・電気両学科の機械工学科・電気工学科への改称、六五年には大学院工学研究科として修士課程の設置、産業機械工学科の増設、六七年の電子工学科増設、六八年の建設工学科の増設などが行われた。
 一方、学芸学部は六五年に養護学校教員養成課程を設置、六六年に学芸学部を教育学部に改めた。戦後改革が教員養成を全大学に開放することを理念としたため、師範学校を基礎に成立した各地の大学・学部は、一般教養・自由学芸の考えのもとに学芸大学あるいは学芸学部の名称がつけられていた。これを改め、大学・学部の目的を鮮明にするという中教審の方針にもとづく、全国の大学の動きの一環であった。



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