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 第四章 高度産業社会への胎動
   第二節 地域振興と県民生活
    四 産業教育の振興
      定時制と通信制
 全日制高校を中心とし、主要市町村への総花的な分校設置が認められるかたちで、福井県の定時制教育は開始された。しかし、震災等による県財政の逼迫を理由に定時制の環境整備は一向に進まず、教育内容にも悪影響をおよぼし、多くの中退者を生み出す原因となっていた(『福井新聞』51・10・4)。こうしたなか、交通・経済等の社会情勢の好転、市町村合併を背景に一九五一年度(昭和二六)に分校の統廃合と設置課程の変更が行われた。五四年には昼間定時制が全日制入学志望者の受け皿となっていることが定時制教育の本旨の点から問題視され、一部の地方的事情のあるものをのぞき、生徒募集を停止した(同年三月に武生高校粟田部分校、丹生・三国・敦賀の本校併置の昼間定時制課程の生徒募集停止)。なお、この年に私立勝山精華高校が県立に移管され、独立校舎をもつ県下唯一の昼間定時制高校になったことが注目に値する。
 五五、五六年、県財政の窮迫を理由に定時制の統廃合がはかられ、多くの反対を押しきって短期課程の全面募集停止や分校の統廃合が行われた。六三、六四年にはベビーブームの影響が定時制にも訪れ、定時制開設以来の入学者をみたが、以後、ふたたび減少に転じていった。こうしたなか、六五年四月に福井商業高校定時制が県立嶺北高校と改められ、夜間定時制の独立高校となった。しかし、校舎は福井商業高校と共用であったため、独立校舎が求められ、七一年四月に文部省による定時制通信制教育モデル校として福井市若杉町に県立道守高校としてあらたに開校し、夜間定時制・昼間二部制・通信制の生徒を募集した(表110 表110 県内定時制高校の開設状況(1948〜65年))
 四八年に開始された通信教育は開設講座・教材・教員等あらゆる面での不備が否めず、また、通信教育のみでは高校卒業に必要な単位が習得できないため定時制との併修を認めていた(藤島高校通信教育部「通信教育に関する調査報告」、『福井新聞』50・7・13)。五五年度にいたり、通信教育で高校卒業資格を得ることが可能となり、遠距離通学生徒への面接指導をはかるため協力校制度も認められた。また、日曜スクーリングに加え、五八年度からは福井市公民館に通信教育部支部を設置し、夜間出張スクーリングを実施、またラジオローカル通信教育講座を担当した。六三年四月には全国的な一県一校への通信制の統合が進むなかで、若狭高校通信制を藤島高校通信制に統合、この年の五月、企業からの集団入学を受け入れて校外学級を開設し、就業と通学を考慮して週一回の出張面接を開始した。以後、丹南・敦賀・福井の繊維企業や福井市青年の家の青年学級、国立福井療養所附属准看護学院からの集団入学がさかんになり、日曜は藤島高校でスクーリング、平日は県内各地の校外学級での出張面接、添削指導などを行った(福井精練加工株式会社「福井精練創業80年記念 染色技術史草稿」)。七四年三月に藤島高校通信制が廃止され道守高校への通信制の移行が完了した。



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