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 第四章 高度産業社会への胎動
   第二節 地域振興と県民生活
    四 産業教育の振興
      高校学区制の改編と実業高校の独立
 中学校を単位とする高校の学区制について、大学区を求める声や全国的に一学区一高校は少ないとの声も依然として強く(『福井新聞』50・7・10、53・9・19)、一九五五年(昭和三〇)には自由学区の枠を広げ事実上従来の学区制は解体へとむかっていった。五六年一二月に入ると県教委は四学区制(福井・坂井、奥越、丹南、嶺南)への改革を検討し、PTA・県教組の反対運動や県教委と県議会との摩擦等を中心に賛否が渦巻いたが、五七年度から比較的自由に学校を選択できる四学区制へ切り替えた(『福井新聞』56・12・6、14、19)。さらに、五八年度からは嶺北・嶺南の二大学区へと移行していった(県教育委員会規則第九号)。
 ドッジ・ラインの堅持によってインフレも終息にむかい、五〇年に勃発した朝鮮戦争による特需によって経済界は立直りへとむかった。産業界も企業における中堅技術者の養成を目的に実業教育の充実を求め、同年八月に来日した第二次アメリカ教育使節団は職業教育の強化を勧告した。
 新制高校はその発足にさいして、男女共学・学区制・総合制のいわゆる高校三原則の必要が強く唱えられ、全国的にも職業課程のみをおく職業高校の設置は抑えられた。(第三章第四節一)。しかし総合制高校では施設・設備および教員の不足、普通課程偏重の傾向で地域社会の期待に沿うことができないとの印象を一般にもあたえていた(『福井新聞』49・12・24、50・7・10)。
 こうしたなか、一八九四年(明治二七)以来の「実業教育費国庫補助法」が一九五〇年度(昭和二五)において打ち切られ、あらたに五一年六月公布の、国からの補助金交付などを骨子とした「産業教育振興法」によって産業教育の充実がはかられた。こうして五一年度以降に単独制実業高校の設立、すなわち総合制から単独制への復帰が全国で拡大していった。
 福井県では五一年九月の「福井県地方産業教育審議会条例」(県条例第四六号)にもとづき翌年に産業教育審議会が発足、さらに産業界の支援も得て福井県産業教育振興会が結成された。五二年度に乾徳高校が産業教育研究指定校とされ、研究実践・設備の充実がはかられ、独立の実業高校設置の気運が高まっていった(資12下 一三三、『福井県産業教育七十年史』、「福井県教育委員会報」26、『福井県立福井農林高等学校八十年史』)。五二年一二月、産業教育審議会は農業三・水産一・工業一の独立実業高校案を決定した(『福井新聞』52・12・3)。
写真78 福井工業高校

写真78 福井工業高校

 こうして五三年四月に高志・丸岡両高校の農業課程がそれぞれ福井農林・坂井農業高校、若狭高校の水産課程が小浜水産高校として開校した。なお、この段階で工業高校については県繊維業界の強い要請等で藤島高校と武生高校の工業課程の合併も考えられたが、おりからの業界の不振・県財政の逼迫で見送られた(『福井新聞』56・1・4)。しかし、その後も産業教育振興会は独立校の誕生を要請し、五七年には藤島高校工業課程が福井工業高校として独立した。以後、五八年には乾徳高校が福井商業高校として商業単独高校となり、若狭農林も誕生、五九年に武生工業、六二年に敦賀工業、六三年に春江工業、六五年に大野工業と武生商業が創立され、中堅産業人の育成を主眼としつつベビーブームに対応しての実業高校の設置があいついだ。なお、六三年には羽水高校も創立された。



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