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 第四章 高度産業社会への胎動
   第二節 地域振興と県民生活
    四 産業教育の振興
      中・高等教育の再編
 米ソ冷戦の深まりのなかでアメリカの対日政策の目的は、当初の徹底した民主化政策からしだいにアジアにおける反共陣営の構築に変更されていった。教育界でも一九四九年(昭和二四)にCIE顧問イールズによる赤色教員追放のいわゆるレッドパージ演説が行われ、五〇年には第二次アメリカ教育使節団が実業教育の充実とあわせ反共主義教育の重視を勧告していた。五一年九月にサンフランシスコ対日講和条約・日米安全保障条約が結ばれ、さらに、おりからの朝鮮特需によるめざましい経済復興は教育政策に強い影響をおよぼし、一九五〇年代からの職業教育の充実・教育行政の中央集権化・教員統制への道を開いた。
 五一年一一月に政令諮問委員会は「教育制度の改革に関する答申」を出し、戦後教育改革が民主的教育制度の確立に効果をあげたことを評価しつつも、日本の国情に即しない点も少なくなかったとして改革の必要性を指摘した。第一に新制度が普通教育に偏重しているとし職業教育強化の提案をなし、第二に国家による標準教科書の作成、第三に教育委員の公選制から任命制への移行、第四に教員免許制度の合理化などであった。当時、新学制の実施は緒についた段階で、新制大学は第一回卒業生を送り出しておらず、検定教科書は三年目、教育委員公選は一回行われたにすぎなかった。五二年に設置が決定された文部大臣の諮問機関の中央教育審議会は、委員の構成等をめぐって論議をよび、ようやく五三年一月に発足した。経済界は、この中教審による教育制度検討に期待をよせ、中・高等教育における実業教育の拡充を要望していた(山住正巳『日本教育小史』)。また、理科教育の充実もあわせて求められ、同年八月に「理科教育振興法」が公布された。



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