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 第四章 高度産業社会への胎動
   第一節 県政と行財政整備
    三 町村合併の促進
      県試案への反発
 遠敷郡の宮川村は県の合併試案では、上中ブロックとして同じ遠敷郡の鳥羽村、瓜生村、熊川村、三宅村、野木村の五か村との合併が計画されていた。しかし、宮川村では小浜市への編入を希望する人びとと、上中ブロックへの編入を希望する人びとがおり、村内の意見は分かれていた。一九四九年(昭和二四)一一月に宮川村を含む六か村で組合立上中中学校が設立されたが、学校の運営をめぐって意見が対立し、宮川村は五〇年一二月組合立上中中学校から脱退した(資12下 一二三)。その後、宮川村では村長と村議会が合併をめぐって対立し、村長は辞職し、村議会も総辞職した。五一年一二月に就任した新村長は、五二年八月に各戸を巡回して投票を求め、この結果二六票対九票で小浜市への編入という意見のまとまりをえた。しかし、県としては宮川村に対して、県試案どおり上中ブロックへの編入を強く求めた。
 五三年九月に台風一三号がこの地域に大きな被害をおよぼすと、災害復旧の問題から、宮川村をのぞく五か村で合併熱が高まってきた。宮川村でも、小浜市編入派と、上中ブロック編入派の対立が続いた。宮川村の村長は、一一月一五日に村民大会を開き、一戸一人ずつ出席することにして、合併についての審議の後に投票を行い、一一九票対一一六票の僅差で小浜市に編入するとの結論をえた(『福井新聞』53・11・17)。この村長はその直後に辞任したが、一二月の選挙でも小浜市合併を公約とした候補者が当選した。
 五四年一月一日には、宮川村をのぞく五か村で上中町が誕生した。県は宮川村に対して県試案どおり上中ブロックへの合併を強く求めたが、宮川村の村長と議会は、県の姿勢は高圧的であるとして、これに反発し、二月一五日に小浜市編入を求める陳情書を県議会に提出した。その理由としては、交通、消費、文化交流などの日常生活の面で小浜市との関係が密接であるということをあげた(資12下 八三、『福井新聞』54・2・28)。小浜市は宮川村との合併を、議会における四分の三以上の議決および組合立上中中学校問題を解決することを条件として承諾することになった。以上の経過を経て五五年二月二一日に宮川村は小浜市に編入された。



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