目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    三 戦後の文化運動と社会教育
      ナトコ映画
 成人の啓蒙のために教育・文化映画を活用する構想は、占領開始当初からたてられ、新学制の実施など学校教育の整備が一段落する一九四八年度(昭和二三)から、アメリカ陸軍省所有のナショナル・カンパニィ社製の一六ミリ発声映写機(NATCO)が各都道府県に貸与され、映写活動が開始される(阿部彰『戦後地方教育制度成立過程の研究』)。
 この時期の情報メディアとしては、まず新聞があげられる。県内の四大紙の購読部数は四八年五月で一二万五〇〇〇部であり、八割の世帯で購読されていたとされる(「月例報告書」)。これにつぐのがラジオであり、同年で聴取者数は五万七〇〇〇人と、四割弱の世帯で聴取されていたことになる。ラジオは、一九六〇年ころまで急速に聴取者を拡大し、六〇年代なかばにテレビにとって替わられるまで、新聞・雑誌などの活字メディアにならんで大きな位置を占めていた(図41)。
図41 テレビ・ラジオ契約数(1941〜80年)

図41 テレビ・ラジオ契約数(1941〜80年)

 同様に映画も、戦時下で禁止されていた洋画の上映が再開されて人気を呼び、大衆娯楽の主要な地位を回復した。福井県でも都市部では、映画館が福井地震後いち早く再開し、四九年四月には福井市内だけでも四館、八月には六館が復興し、さらに再建計画が進むほど盛況であったが、反面農村部でトーキー(発声映画)が上映される機会はほとんどなかったという(『福井新聞』49・4・10、『まち』1)。
 こうしたなかで福井県では、四八年五月に映写機材が配布され、翌六月末の福井地震後には、第八軍の特別許可でさらに七台の映写機が持ち込まれ、被災地の慰問や啓蒙活動に活用された(「月例報告書」)。七月には県社会教育課に視覚教育係がおかれた。県フィルムライブラリーは、福井市役所内に仮設されていた福井市図書館に付設され、四九年一月に県庁内に移転した。さらに、五〇年三月の県立図書館の開設とともに同図書館に移転した。
 四八年に貸与をうけた映写機器は、映写機一四台、スクリーン一三本、民間情報教育局映画(CIEフィルム)三五本であった。映写機は県の移動班に二台、県下を一二地区にわけてそれぞれの地区に一台ずつがおかれた(『大正昭和福井県史』下、『福井県教育委員会報』2)。同年四月には、「終戦後の困惑した大人の世界に投げ出された子供達に、子供らしい愛情と社会意識を呼び起す児童映画を与えるために、農村巡回映画の組織網を確立するために、即ち県民大衆に真に社会的価値のある映画を与える」福井県視覚教育協会が創設された(武生東小学校文書)。
 これらの映写機器の利用は、上映フィルムの不足にもかかわらず、四八年一〇月の文部次官通達(発社第一〇三号)では、一台について一か月二〇日以上の上映日があるように求められていた。この最低稼働日数のノルマに加えて、移動映画計画を軍政部が監督することになっていたため、受入態勢が整わない市町村や公民館、青年団、婦人会でも、少なからぬ経費負担(電気配線や技師の宿泊など)や運営の労をとらざるをえなかった(阿部彰『戦後地方教育制度成立過程の研究』)。
 福井軍政部の「月例報告書」からわかる四八年から四九年にかけてののべ参加者数は、月あたり一万人から九万人であり、のべ数ではあるがかなりの数の参加者を得ていた(表94)。CIEフィルムの上映は、農村部を中心とする映画への期待に支えられて一定の支持を集めたと考えられる。

表94 県フィルムライブラリーの活動

表94 県フィルムライブラリーの活動
 四九年六月の県フィルムライブラリーの所蔵フィルムは、CIEフィルム五二本、日本製のものが一二本であった。CIEフィルムは、おもにアメリカ製のものを日本語にふきかえしたもので、「地方自治の話」「アメリカの国立図書館」「原子力」「農業協同組合」「町も学校」「科学する女性」といった政治、経済、教育、医療の諸改革に理解を深めることを意図した啓蒙的なものに加えて、「アメリカの音楽」「ニューヨークの港」「イギリスのトピック」といった連合国の文化や風土を紹介する娯楽的なものが含まれていた。日本製のものは、文部省の審査をへた教育映画のみが上映され、総じて娯楽性が薄かったが、「すてねこ虎ちゃん」「子供議会」(文部大臣賞)といった秀作の教育映画とともに、黒沢明「酔いどれ天使」や「福井震災大ニュース」などがあった。



目次へ  前ページへ  次ページへ