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 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    三 戦後の文化運動と社会教育
      公民館の設置
 第一次アメリカ教育使節団報告書をうけて通達された文部省の「新教育指針」(一九四六年五月)では、「最近各地に設けられつつある『公民館』は公民教育の中心施設」とされ、総司令部の支持もえて、公民館は社会教育の中心的な施設として整備されることになった。
 福井県では、一九四六年(昭和二一)九月一〇日の通牒「公民館の設置運営に関する件」とともに文部省の「公民館設置運営のしをり」が配布された。これは同年七月の文部次官通牒「公民館設置運営について」に対応するものであり、この前書では公民館は「郷土に於ける公民学校、図書館、博物館、公会堂、町村集会所、産業指導所などを兼ねた文化教養娯楽の機関」とされ、「町村公民館を設置して之を適切に運営すること」をとおして「民主主義の実際的訓練を与へると共に科学思想を普及して平和産業を振興する基を築く具体的な場所」であるとされた。このため「この施設は上からの命令で設置されるのではなく各町村の自発的な創意と努力とによって生まれるものでなければならない」とされていた(旧内外海村役場文書)。
 しかし、福井県の場合、一〇月三一日にとくに困難な市町村をのぞいて一二月から設置開館が要請されており(教第一九五三号)、強制力をもたない通牒によるものではあるが、公民館の設置はかならずしも自治体の自発性にまかされたものではなかった(旧内外海村役場文書)。翌四七年一月にも「特に連合軍当局よりの要請に基くもの」として未設置の町村に対しては二五日までに設置することが指示された(旧宮川村役場文書)。
 残存する福井軍政部の「月例報告書」からは、福井軍政部が公民館の設置について特別な勧奨をあたえていたという記述は見出せないが、四七年八月までに県内で公民館を設置した市町村は、一六八市町村中九三(五七%)にのぼった。これは全国的にみると福岡、京都につぐ高い設置率であった(『近代日本教育制度史料』27)。しかし、翌年五月の県内一一三館のうち、独立した建物をもつ公民館は、わずか一五にすぎず、大半は小学校(六五)や役場(一〇)などに併置されたものであった。同様に専任の館長を設置する館は五、村長(三九)や小学校長(三一)などが兼任する館は一〇八であり、県の指示によって形式的に公民館を置いた町村は少なくなかった。五二年度では、一五二市町村中一三一と八割をこえ、専任館長は一六名、公民館職員は三〇二名中専任四九名であった(旧宮川村役場文書)。



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