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 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    三 戦後の文化運動と社会教育
      社会教育活動の民主化
 こうしたなかで戦後初期の社会教育行政は、総選挙のための公民啓発運動、「新憲法精神普及徹底運動」、「新日本建設国民運動」など、国の主導する国民運動の教化的側面を担っていた。
 これに対して、地方軍政機構が整備されてくる一九四七年(昭和二二)以降、地方軍政部の担当官が直接かかわって、具体的な社会教育活動や団体運営のあり方について、指導・啓蒙が行われはじめる。福井県では四七年三月に、青年団幹部や県、市町村の社会教育委員を対象とした講習会が、文部省嘱託で公民館設立を推進した鈴木健次郎を講師として開かれた(資12下 一四四)。ついで六月の「第一回社会教育研究大会」では、福井軍政部民間情報教育課長ローが「成人教育や社会教育は、官僚的に上から強制されるものであってはならず、自発的に民衆によって計画されなければならない」と講演している(『福井新聞』47・6・4)。
 この研究大会は、社会教育指導者の養成のために四七年から五〇年にかけて、全国的に開催されたものであり、福井県では翌月、さらに各地方事務所別に研究大会がもたれた。この会には、福井軍政部担当官が指導者として参加し、市町村の公民館長、社会教育委員をはじめ、青年団、婦人会、農民組合、労働組合の代表各一名の参加が徹底されており、かならずしも自発的な参加にまかせられたものではなかった(旧内外海村役場文書)。
 敦賀郡粟野村では、この研究大会をうけてさらに村単位の研究大会を開催していた。県、地方事務所、村という伝達講習の形式でもたれた会ではあったが、三〇分の幻灯上映をのぞく半日の集会のすべてが、「指導者が議題について意見を述べ出席者の意見を求め、出席者が之に対し意見発表又は質問を行い討論」する「陪審式討論法」によって構成されており、村長の司会で、青年団や婦人会、農業会の代表が、それぞれの意見を述べていた(旧粟野村役場文書)。このように「民主化」のための講習会は、それ自体の企画に教化・動員の枠組みを強く残しながらも、それまで公的な場で意見を述べることの少なかった青年・婦人層が発言する機会を、村むらに持ち込むことになった。
 福井軍政部が、民主的な団体運営のあり方やグループ活動について、技術的な側面を含めた指導を開始するのは、「月例報告書」でみるかぎり、地方軍政機構の改編によって民間情報教育課が民間情報課と民間教育課に分離する四八年三月以降のことであったと思われる。地方軍政組織が属する第八軍司令部の教育諸施策においても、四八年四月から婦人団体、PTAなどの成人教育団体の民主的組織化、経営のための援助が、教育行政の地方分権化などについで二番目の優先順位がつけられ、同年七月から府県軍政部が縮小される四九年秋まで、とくに婦人団体の民主化は最優先の課題とされていた(阿部彰『戦後地方教育制度成立過程の研究』)。
 福井軍政部でも五月には、民間教育課が後援して、婦人会議が開かれ、第一軍団の婦人問題担当官アダートンによる講演と民主的な会議の進め方についてのモデル劇が行われた(『福井新聞』48・5・8)。福井地震をはさんで翌四九年一月には、前年一〇月に開かれた文部省主催の第一回青少年指導者講習会の伝達講習会が開かれた(「月例報告書」)。この講習会は、全員合宿を原則として、グループワークの方法、役員の選出と任務、議事運営の技術などが講義・討論され、フォークダンスなどのレクリエーションが紹介された。この講習会は、五〇年まで全国各地で開かれ、各都道府県ごとに伝達講習会が開催され、そこでのプログラムが講習会・研修会のモデルとなった(『日本近代教育百年史』8)。
 四九年二月には、婦人団体に対しても、県内各地で規約と議事の運営について学ぶための研修会が開かれ、点検表と模範例をもとに自らの組織の仕組みや規約に多くの欠点があることが明らかにされたという(「月例報告書」)。



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