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 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    三 戦後の文化運動と社会教育
      連絡組織の創設
 『北陸生活』は、第四号(一九四七年七月)で終刊を余儀なくされたが、同時期に県内の文化サークルの連絡組織をつくろうとする動きがでてくる。一九四七年(昭和二二)秋の北陸三県の北陸文化会議の準備をとおして議論がなされ、翌四八年一月、「福井県文化団体協議会」(五〇年に「福井県文化協議会」と改称)が発足した(『福井県文化史』)。四月に発行された機関誌『文協会報』では、同協議会は「どこまでも、純粋な文化をめざす県内の諸文化団体の共通な良心によって連合された」として、文化賞の選考と授与、文化祭の開催、論文・短編小説・脚本の募集などの事業計画が報告されている(『文協会報』1)。
 また、新制中学校や新制高校においても、学校新聞や文芸誌が創刊されたが、こうした学校ごとの垣根をこえる活動が、戦後間もない旧制中等学校にめばえ、広く県下の中等学校を巻き込んで展開されたことは、戦後の新しい動きといえるだろう。
写真65 高校生芸術祭のポスター

写真65 高校生芸術祭のポスター

 四六年四月、旧制福井商業学校の田中武幸・堀芳男らが中心となって、旧制の福井中学校、福井工業専門学校、北陸中学校生が寄稿し、「福井県下中等学校総合雑誌」『希望』が刊行された(『希望』1)。創刊号は「終戦後解放された人の心に文化日本への運動が展開されて来ました。だが、学生の理解ある情熱と意気の溢れる雑誌があるでせうか」と問い、「今こそ真実性を召喚して、我々の肉体に脈々と流れる若き学生の血液を奔流し躍動すべき秋なのです」と呼びかけた。四六年一一月には、高等女学校や嶺南の小浜中学校を含めた二〇校以上が参加し、その活動は県下の中等学校に広がっていった(『希望』1―4)。『希望』の発刊は、福井震災による原稿の焼失やその後の困難な印刷事情を乗りこえて継続され、四九年までに通巻一九号が刊行された。
 なお、「希望会」は雑誌の刊行に加えて、四七年一〇月に「県下中等学校芸能大会」を主催し、翌年には震災で福井市のほとんどの学校が被災したため、武生東小学校で「芸能コンクール」を開催、その後「高校生芸術祭」として五五年まで開催された。この芸術祭には、各高校の演劇部、美術部、音楽部などが広く参加し、県下高校生の文化活動の祭典となった(『朝日かわら版ふくい』10、12)。
 これら以外にも、工場や職場で労働組合による演劇・音楽サークルが簇生しており、四九年秋には「新日本文学会」福井支部が結成された(『文協会報』1、『中野鈴子全詩集』)。戦後の社会教育は、その意味でかつてない文化運動のひろがりを背景に展開されることになった。



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