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 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    三 戦後の文化運動と社会教育
      青年団の再出発
 こうした文化サークルは、町部にその中心をおいた動きであり、農村部での娯楽や文化活動は、おもに青年団の動向と重なっていた。
 文部省も一九四五年(昭和二〇)九月には、「男女青少年ヲ無組織ノママ社会生活場裡ニ放置スル」こととなるため、「官製的或ハ軍国主義的色彩ヲ一擲シ郷土的団体トシテ」青少年団体を設置するよう通牒した。対象とする年齢は一四歳以上二五歳(幹部は三〇歳)までとされた。
 各町村では四五年秋ころから、青年団結成の動きがみられ、四八年四月段階の市町村青年団一三四のうち、四五年中に設立をみたのは一七、四六年四月までにさらに六九、これらを含め同年八月までには八割にあたる一〇三が活動を開始していた(旧内外海村役場文書)。さらに同年秋にかけて、ほとんどの郡で連合青年団が結成され、これらの代表によって、会長・役員の人選をめぐって七回におよぶ結成準備委員会が重ねられた。ここでの議論をもとに四七年一月には福井県連合青年団が結成された(『福井県連合青年団団史』)。県連合青年団は、四八年四月には、三万五〇〇〇人をこえる青年を組織しており、これは戦前四二年の男女青年団員数三万四〇〇〇人と等しい規模の地域網羅的な組織であった。
 この時期に再建された青年団は、「新生」青年団と自称され、戦時体制下で自粛させられていた相撲・野球・陸上競技や運動会、盆踊り、神社の祭礼での演芸会や慰安会の復活のために、在村の青年たちによって自主的に設立されたものであった(『南条町青年団史』)。四八年四月の「社会教育実態調査」によればその大半は、男女合同の組織であり、村長や校長が役員をつとめるものはほとんどなくなり、団長の年齢は平均二五・六歳と格段に若返っていた。しかしながら、短期間に再生された青年団は、それまでの官製青年団としての組織運営を少なからず引き継いでいた。
 四六年には、依然として「皇国再建ノ荊道ヲ拓」くことや「切磋琢磨シテ健全ナル思想ノ向上、和徳ノ修養」が団則に掲げられたり、前述の文部次官通牒で、町村長、学校教職員、宗教家などに顧問を委嘱することとされていたことから、これらを顧問とする団も少なくなかった(旧内外海村役場文書、『武生市連合青年団史』)。規約や組織運営の民主化が自覚されてくるのは、この時期、ひんぱんに開かれた弁論大会や種々の集会、指導者講習会での議論を通じてであったと思われる。たとえば丹生郡殿下村青年団では、四六年一月に制定しその後部分的に改正してきた団則を、四九年四月に「根本的」に改正した。これは、直接には前月の「民主団体指導者講習会」の指導に対応したものであり、団員全員が参加する「例会」を最高議決機関とし、各部の常任委員会に団員が直接参加して活動を企画実施することに改正された(『殿下村青年団機関誌』3)。



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