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 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    三 戦後の文化運動と社会教育
      文化サークルの簇生
 戦時体制下に抑圧されていた文化や娯楽活動は、敗戦後、困難な生活条件のなかであったが、県内各地でさまざまな人びとによって開始され、数多くの文化サークルがつくられた。これらのなかには、戦前からの社会教育団体である青年団や婦人会も含まれ、そうした再生された団体も含めた地域の文化活動の動向が、戦後の地域での社会教育行政の実施に深くかかわっていた。
 各地域の自生的な文化サークルを全県的につなぐもっとも早い動きとして、「北陸生活文化協会」の結成があげられるだろう。福井新聞社内に事務所をおいた同協会は、一九四六年(昭和二一)一月、「北陸地方の心ある人々の一切を網羅し、随時随所に文化的事業を行ひ、日常生活の教養と趣味と科学性の高揚を図るべく、職業、年齢、男女の別を問はず広く同志を募」るとして、『福井新聞』紙上で機関誌への投稿を呼びかけた(『福井新聞』46・1・5)。同年五月には、機関誌『北陸生活』が創刊された。理事一九名のなかには、疎開中であった三好達治・多田裕計・山本和夫・伊藤柏翠ら文学者、雨田光平(彫刻家・ハープ奏者)や鈴木千久馬(洋画家)、斉藤静(福井工業専門学校講師)、藤井利一・沢村伍郎ら福井新聞関係者のほか県内各紙の代表者など、県内在住の広範な文化人が名を列ねていた。さらに文学に関心を寄せていた堂森芳夫や歌人でもある熊谷太三郎ら政治家も含まれていた(『北陸生活』1、『福井県文化史』)。
 三好、多田、山本、伊藤、雨田らは、いずれも戦災をさけて福井県に疎開していた文化人であり、こうした疎開文化人の存在が同協会結成へのインパクトになっていたといえるだろう。さらに北陸生活文化協会の呼びかけの背景には、戦後間もないころからの県内各地で活動を展開していた文化サークルが存在していた。それらは、けっして著名ではないが、自身も疎開者・引揚げ者であったり、あるいは文化活動を渇望していた青年層によって担われる場合が多かった。
 同四六年一月には三国では畠中哲夫らが堂森芳夫・三好達治・伊藤柏翠、小野忠弘を交えて「三国地方文化会」をつくり、蔵書を出しあって文庫を設け、文化祭「音楽と劇の会」を開いた(堂森芳夫顕彰会『政治にロマンを貫いて』)。四七年ころまでには、「鯖江文化協会」(鯖江町)、「南越(若越)文化交友会」(武生町)、「文化教室」(武生町)、「敦賀新生文化協会」(敦賀市)、「若狭文化会」(小浜町)など、「文化」を冠するサークルが県内各地に生まれていた(『福井県文化史』)。また俳句、短歌、書道などの文芸サークルも数多くつくられた。
写真64 『奥越文化』と『北陸生活』

写真64 『奥越文化』と『北陸生活』

 また大野郡では、さきの『北陸生活』の編集委員となる宮沢岩雄をはじめとする郡下の中等学校の教師を中心に、四六年一月に「奥越文化協会」が結成された。戦後初期には、全国的に『潮流』『世界』などの総合雑誌の創刊があいついだが、同協会もまた用紙不足などで印刷事情が困難ななか、「総合雑誌」を企図した『奥越文化』の出版を開始した。さらに同協会の主催で新憲法発布記念弁論大会や芸能文化祭なども催され、文学活動のみならず自治や教育、産業にもかかわった幅広い活動が行われた。こうした奥越文化協会の動きは、大野郡内の絵画や文学の諸サークル、青年団や公民館の活動、さらには新制高校の誘致運動などと人的に連関しており、それらの地域の広範な運動を連合する組織として結成されたものであった(『勝山市史』通史編3、山口進「『奥越文化』の刊行と公民館活動」『福井県史しおり』)。
 四八年四月の県社会教育課の「社会教育実態調査」では、福井市の二〇団体をはじめとして県内で六九団体があげられていた。うち二三団体が機関誌を刊行していたことがわかる。これらのなかには、上述の文化サークルのほか、ラジオ・ドラマの研究団体であり、五〇年代前半の県内演劇活動の交流の場ともなる劇団「福井自由舞台」の母体となった「アンテナ・クラブ」、地理学・地理教育の研究団体である「福井県地理学会」、加藤貞子らによる「福井婦人文化クラブ」なども含まれていた(旧内外海村役場文書、「あんてな」1、『文協会報』1)。



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