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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
    四 労使関係の再編と労働運動
      労働組合の結成
 総司令部は、日本の民主化政策の一環として、一九四五年(昭和二〇)一〇月、五大改革の指令を発して、そのなかで労働組合の結成を奨励した。政府は一二月に「労働組合法」(いわゆる旧労組法、四九年全面改正)を公布し、同法は翌年三月に施行された。また「労働関係調整法」(旧労調法)も九月に公布となった。これにより、わが国ではじめて労働者の団結権、団体交渉権、争議権(労働三権)が法的に保障されることになり、全国的に労働者の組織化が進んでいった。
 福井県における戦後最初の労働組合の結成は、四六年一月の日本電気産業労働組合京都支部小浜分会であった。その後、とくに労働組合法が施行された三月以降の結成がめざましく(図38)、同年末には組合数一五二、組合員数約二万九〇〇〇名を数えるにいたった(表84)。組合の連合体についても、四六年六月には、中央での日本労働組合総同盟(総同盟)結成の動きに呼応して、日本労働組合総同盟福井県連合会(総同盟県連)が結成され、大和紡績福井工場労組、東洋電気西田中工場労組、信越化学武生工場労組など一〇組合が加盟した(『福井新聞』46・6・17)。また、全日本産業別労働組合会議(産別会議)の福井県組織として産別福井地方協議会も結成されている(『福井県労働運動史』1)。
図38 月別労働組合設立件数(1946年1月〜47年8月)

図38 月別労働組合設立件数(1946年1月〜47年8月)


表84 労働組合数(1946〜55年)

表84 労働組合数(1946〜55年)

 この時期、とりわけ官公庁・公益事業などの全国規模の労働組合では、労働者の生活防衛を組合運動の主要課題としており、大幅な賃上げや生活必需品の支給などを要求した。したがって、全逓信従業員組合(全逓)、日本電気産業労働組合(電産)、国鉄労働組合などの県内の組合支部の結成は、こうした生活防衛闘争を前面に掲げるものであった。たとえば北陸配電福井支店の組合結成のさいにも、本給の五倍引上げ、自転車・被服等の現物支給などの要求がなされている(『福井新聞』46・2・21)。
 しかしながら県内全体を見渡すと、労働組合の結成は進展したものの、四八年一〇月末段階でも県下約四五〇〇の事業所のうち組合を結成しているのはわずか二三五、とりわけ小規模工場での労働者の組織化が遅れていた(『福井新聞』48・11・26)。これは、福井県の中心産業が繊維工業であり、その経営規模は零細なものが多く、しかも労働者の大半が女子であるため、労使対立が顕著でないことが一因であった。また、労働者の意識が低調であったことも組織化の遅れの背景にあり、四六年六月に福井新聞社が行った丹生郡下五〇工場一五〇名の従業員に対する調査では、「従業員組合を何故結成しないか」の問いに、「理解があるから必要なし」「機熟せず時期尚早」との回答が大半であった(『福井新聞』46・6・24)。
 また、組合が組織された民間企業においても、産業報国会の流れをくんだこともあり労使協調的色彩の強い組合が多かった。たとえば、四六年六月に潮田豊を初代組合長として結成された福井精練加工従業員組合では、翌四七年二月に締結された労働協約のなかで労使同数の代表からなる経営協議会の設置が決められたが、その運営にあたっては「相互信頼により主張すべきは主張し、譲るべきは譲り、いわゆる透明で協力し合う経営」が「合言葉」とされた。なお潮田は同年四月の戦後初の福井市議会議員選挙に労使双方のバックアップで当選するとともに、翌四八年九月には同社取締役に就任する(『セーレン百年史』)。また大和紡績福井工場労組では、つぎにみる生活権獲得共同闘争の盛上りのなかで、四七年一月会社側から思想傾向に問題があるとされた五名の組合員について、組合大会において圧倒的多数で除名の動議が可決された。この処理をめぐって組合役員が辞職するなど事態は紛糾したが、結局、工場長、県生活権獲得共同闘争委員会、福井県地方労働委員会らとの協議により、労使双方が、工場の民主化、従業員の生活安定確保、労使協力による事業復興などを誓うことでいちおうの解決をみた(『福井新聞』47・1・13、15、16、19)。



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