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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
     三 繊維産業の再建
      ブームの崩壊
 しかしながら、増産ラッシュも一九五〇年(昭和二五)末より好況末期的様相を呈しはじめた。一〇月二六日に人絹・スフ糸の設備制限が撤廃されたものの当面のパルプ不足は解消されておらず、人絹糸メーカーはただちに増産できる体制にはなかった。東洋紡績敦賀工場でも一二月に日産一一・五トンから一六・五トンに増産する計画を立てたが、増設完了は翌年末であった(『福井新聞』50・12・17)。こうした原糸不足が継続するなかで原糸高・織物安という状況は深刻になっていったが、とりわけさきに新増設を行った中小・零細業者の困難は大きかった。大規模業者の場合は人絹糸メーカーや特約店との継続的取引慣行により糸の調達は容易であったが、三〇台以下の業者の多くは、基準価格の改訂を見込んだ商社の出し渋りにあって、法外な市価で糸を入手せざるをえず、基準価格で入手した場合にも織物を安く買い叩かれることが頻発した(『福井新聞』51・1・20)。業界では「糸よこせ運動」がおこり、政府、人絹糸メーカー等への陳情運動が展開されたが、五一年二月はじめより相場はふたたび急騰することになる。織物は人平福井一号が早くも二月一四日に七五円五〇銭のピークを迎えて以後頭打ちとなったのに対し、糸は帝人ビス一二〇デニールが三月二〇日に五四五円となり、以後暴落していく(図36)。皮肉にも、二月一九日人絹取引所は再開されたが、相場の激しい騰落に翻弄される以外になすすべはなかった。
 この人絹相場の最終的な高騰の局面で、三〇台以下の小規模・零細業者は糸の手当がつかず事実上操業停止に追い込まれた。三月なかばには高志織物工業協同組合が同盟休業に突入したのを皮切りに、福井、南部、坂井、吉田の各地区組合があいついで四月一日からの同盟休業を決議した。もっとも五〇台以上の中規模工場はまだ受注があり、ほとんど義理程度の操短であったし、一〇〇台以上の大工場は同盟休業とは関係なくフル操業を行っていた。これらの工場で賃金カットや人員整理が開始されるのは夏以降であり、九月に酒伊合同紡織が二九九名、一一月には松文産業が一〇〇名の解雇を労組に申し入れるなど、大機業でもしだいに不況色が強まっていった(『福井新聞』51・9・4、11・3)。
 一方、ブームのなかで、実需、投機を問わず手形による糸・織物の売買が急速に拡張し、手形に対する金融機関の割引や業者間の融通手形の振出、手形の書換延長が頻繁に行われていた。しかし、相場の暴落にともない資金繰りが急速に悪化しはじめると、産地および集散地の繊維商社のなかには倒産に追い込まれる所が現われ、これに連鎖して取引関係を有する商社・機業の経営悪化、操業停止が発生した。県内では産地商社の老舗の一つ、西野産業(資本金一五〇〇万円)が一一月一日負債総額六億五八二四万円を抱えて倒産した。債権者の内訳は、原糸会社(八社・一億八二六万円)、関係会社(日の出織物ほか四社・四七四七万円)、県外商社(一三二店・三億一二一〇万円)、県内商社(三二店・六五二二万円)、県内機業(一〇三件・八九七二万円)であった(『見聞』52・1)。また集散地問屋の経営破綻も影響し、横浜の小泉商店の倒産に関連して軽目羽二重の主産地であった中津山(今立郡南中山村)の中権織物をはじめとする代表的機業が一一月より倒産や一時閉鎖の危機に追い込まれた(『福井新聞』51・11・24、30)。



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