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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
     三 繊維産業の再建
      朝鮮戦争ブームの到来
 一九五〇年(昭和二五)六月二五日の朝鮮戦争の勃発は、特需への期待から繊維商品価格の急騰を招いた。三月はじめを底として徐々に上向きつつあった福井の市中人絹糸・織物相場も、七月上旬までは帝人ビス糸一二〇デニール一ポンド二〇〇円前後、人平織物福井一号で一平方ヤール三〇円前後と模様眺め気味であったのが、中旬以降急騰し八月八日には前者は四五〇円、後者は五六円の最高値を示した(図36)。
図36 人絹糸・織物市中相場(1950〜51年)

図36 人絹糸・織物市中相場(1950〜51年)

 こうした人絹糸・織物価格の高騰は、朝鮮戦争の直接的影響というよりもむしろ、(1)戦争勃発を契機とする世界的な景気好転を背景に東南アジア、南アジア、アフリカ等の輸出市場における注文が殺到したこと、(2)前年六月に人絹糸増産の指示があったものの世界的なパルプ需要の増大のなかで、依然人絹糸メーカーはフル操業できなかったこと、(3)新規参入の機屋や商社が殺到し、業界全体が投機的な思惑売買を大々的に展開したこと、によるものであった。八月九日以降相場は反落し、九月一五日糸価は三〇五円で底を打ち、その後翌年一月まで三一〇円から三五〇円で推移する。この間、八月二四日に政府は「暴利等取締対策要綱」を発表して適正価格を大幅に超過した場合の取締りの徹底を勧告したが、これに関連して一〇月三日、値上りの著しい人絹糸・スフ糸について輸出価格より逆算した基準価格を設定し(同日現在でビス糸の生産者価格一ポンド三一二円、販売者価格三四三円)、市中価格がその一割をこえた場合に暴利として取り締まることになった。一〇月一一日、来るべき人絹取引所再開に備えて同所の設立総会が開かれたが、この基準価格設定により取引所の需給調整機能が束縛されることを懸念する声も強かった(『福井新聞』50・10・17、『福井県繊維工業昭和25年度のあゆみ』)。
 一方、七月の人絹相場の急騰を背景に、県下織物業者の増産意欲は著しく高まった。図37で明らかなように、年初より増加傾向にあった輸出向け人絹織物の生産は八月以降内需向けをしのいで朱子を中心に伸び続け、五一年一月にピークを迎えた。この増産ラッシュは、織物業者の新規参入と設備台数の増加をともなうものであった。表83にみられるように、このラッシュの中心は二〇台以下の零細業者への新規参入と、二一から五〇台の中小業者の織機増設であった。また、染色加工部門でも、福井精練では勝見工場が五〇年一二月に、酒伊精練では春日分工場が五一年一月にあいついで操業を開始し、県染色工業協同組合加盟の中小工場も増設を行うなど、従来生産高の四割程度であった県内染色加工の比率を上げるべく設備投資ブームが展開することになった(『福井新聞』50・8・29、51・1・18、『セーレン百年史』、『酒伊繊維三十年の歩み』)。
図37 絹・人絹織物月別生産高(1950〜51年)

図37 絹・人絹織物月別生産高(1950〜51年)


表83 規模別工場数・織機台数(1949、50年末)

表83 規模別工場数・織機台数(1949、50年末)



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