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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
    二 農林水産諸団体の民主化
      農業協同組合の成立
 農業における占領期のもっとも大きな変革は農地改革による農地制度の変革であるが、農業団体も戦後の民主化の過程で大きく衣更えすることとなった。
 日本の農業団体の民主的な改組については、すでに敗戦前からアメリカでその構想がねられており、敗戦後の一九四五年(昭和二〇)一〇月一一日には、マッカーサーから幣原喜重郎首相に、日本の経済機構の民主化を求める、いわゆる「五大改革指令」が口頭で伝えられた(中村隆英『占領期日本の経済と政治』)。
 これに対して、日本側においても、同年一〇月九日に、松村謙三農相が就任のあいさつのなかで、自作農の創設とともに、戦時中の官製的な農業組織を自主的な組織に改組したい旨を述べていた。
 四七年一一月の「農業協同組合法」の公布によって、官製の農業統制団体として戦時中の四三年に発足していた農業会は、その補助行政機関的な役割をのぞき、あらたに設立される農業協同組合に引き継がれることになった。この法律が生み出されるにあたっては、新しくできる農協に行政の補完機能をもたせたり、またその下部組織として集落ごとに農事実行組合をつくり、それを基本単位に農業生産の協同化を推し進めようとする日本側と、農業会の復活を懸念し、あくまでも自由・自治・民主という協同組合の古典的原則を守ろうとする総司令部側との間で激しい対立があった(中村隆英『占領期日本の経済と政治』)。
 この法律の公布をうけて、福井県の各市町村でも農業会組織の解散が進み、あらたに設立された市町村農協にとってかわられた。そして、四八年八月三日にはこれら市町村農協を会員とする指導農業協同組合連合会(指導連)・信用農業協同組合連合会(信用連)・販売農業協同組合連合会(販売連)・購買農業協同組合連合会(購買連)の四連合会の設立総会が永平寺においていっせいに行われた。また、四八年の八月一四日をもって福井県農業会はいっさいの業務を停止し、それをうけるかたちで一〇月二一日には福井県農業会の資産と負債(負債額の方が三二二四万円超過)が農協の各連合会に引き渡された(『福井県農業協同組合二十年史』)。
 福井県の市町村農協の数は、四八年五月の段階で総合農協一七九、開拓・養蚕・酪農などの特殊農協一二の計一九一にのぼった。これら新しくできた農協はそれまでの農業会とその性格を異にし、設立や加入脱退の自由、民主的な管理運営が保証されていた。福井軍政部の四九年四月の「月例報告書」では、設立当初の市町村農協の運営について「新協同組合は、旧農業会に比べはるかにすばらしい共同体精神を発揮し、それぞれの地域の抱える問題の改善に務めている。四月中に七つの組合を訪問したが、いずれも定例会議を開き、組合員は自由討論という新たに知った権利に熱中している。最も驚いたのは、参加している女性の数である」と報告している。軍政部経済課長による上級機関への報告という資料そのもののバイアスを差し引いても、草創当時の農協の生き生きとした姿を伝えているといえよう。
 しかしこのような農協も、出資金の少なさによる自己資本の不足や都市商人の進出にともなう事業活動の不振、さらには農民による農協利用頻度の少なさなどが重なり、四九年から五〇年にかけてその経営状態はきわめて苦しいものとなった(『福井新聞』49・6・5)。租税負担の強化とドッジ不況という国民経済の動きもそれにさらに拍車をかけた。
 福井県では五〇年の六月二九日から三〇日にかけて農協四連の第三回総会が開かれているが、この会での報告によれば、販売連の四九年度の赤字額は九九五万円、購買連のそれは二〇〇〇万円(このほか農業会から引継ぎの不良資産二七一〇万円)、指導連のそれは六五三万円にのぼった(『福井新聞』50・7・2、『福井県農業協同組合二十年史』)。信用連こそわずかながら黒字を出したものの、総じて農協四連の経営はきわめてきびしいものがあった。
 また単位農協に関しても、たとえばのちに再建整備法の適用をうける今立郡服間村農協の五〇年度の財産状態をみてみると、資産三四二万円に対して借入金などの負債がその倍以上あり、欠損金は四七九万円の多きにのぼっている。また自己資本はわずか二四万円しかない(「服間村農業協同組合再建整備計画書」)。どの単位農協もこの服間村農協と大同小異の状態で、四九年度末の単位農協の平均出資額二一万円(一人あたり平均出資額四五〇円)は、戦前の産業組合の平均出資額(三七年)と物価指数を考慮のうえ比較すると、二割以下でしかなかったという(『福井新聞』49・12・15)。
 このように農協をとりまく情勢はきわめてきびしく、「農協組は二才になったが、職員も農民も熱がなく、資金計画も立てられぬ」(『福井新聞』49・6・5)と新聞に皮肉られる始末であったが、五〇年八月にさらにそれに追討ちをかけるできごとがおこった。それは、県販売連・購買連の会長であると同時に福井県農民連盟の会長も兼ねていた三宅嘉久をめぐる背任横領事件が発覚したことであった。このことも福井県の農協をとりまく情勢をさらにきびしいものにした。
 このような危機的状況のなかで、福井県の農協は、四連においては職員の削減・経費の削減・販売連と購買連の統合、単協においては増資運動などによって、この危機を乗り切ろうとしたが、いわば構造的な危機に陥っている農協を救うためには、このような地方レベルにおける小手先の改革ではらちがあかず、やはり国レベルにおけるなんらかの施策が必要であった。
 政府は五一年四月七日、「農漁業協同組合再建整備法」(五月からは農林漁業協同組合再建整備法)を制定し、農協の再建に乗りだした。福井県でも不振の単位農協六八と販売連・購買連(一二月からは合併し、販購連)がこの法律の適用をうけ、それぞれに増資奨励金と利子補給がなされることとなった。この法律が再建期間としてうたっていたのは五年間であったが、県内の農協で五年以内に目標を達成したのは長畝(四年)、円山西(五年)の二単位農協のみであった。ただし、五五、五六年の米の豊作などもあり、再建整備がはかどるようになり、五九年までに小浜・口名田・宮川など計五〇の農協が目標を達成することとなった(『福井県農業協同組合二十年史』)。



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