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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
    一 農地改革
      農地改革の結果
 農地改革は全国で一九三万町歩余の小作地を自作地化することになった。その結果、小作地の割合は改革前の四五・九%から九・九%へと激減し(『農地改革資料集成』11)、借入地(小作地)が五割以上の農家の割合も、四八・二%から一五・二%へと大きく下がった(『農地改革顛末概要』)。戦前強固に日本社会を規定していた地主制は、あっけなく崩れさったのである。
 農地改革による小作地面積の変動を福井県と全国とを比較してみると、福井県の小作地面積の割合は戦前全国平均とほぼ同じ水準であったが、農地改革後のそれは全国平均の九・九%をはるかに上回り、一五・三%に達している(『農地改革資料集成』11)。じつはこの数字は全国一の高さであり、このことから、福井県の場合、小作地面積の減少の割合は他の諸県と比較するとかなり低かったことがわかる。
 さらに郡市レベルで小作地面積の変動をみてみると、とくに若狭地方の郡市の小作地面積の減少の割合が極端に低いのが目につく(表74、75)。この理由は、若狭地方の場合、地主といっても小地主が多く(一〇町以上を保有する地主は存在しなかった)、小作地面積の割合自体がもともと低かったことによるものである。若狭地方の農地面積の福井県全体に占める割合が非常に低いことを考えると、福井県の小作地面積の減少の割合の低さに若狭地方の数値がどの程度反映されているかは微妙なところだが、あまりにその程度を過大に見積るのは危険なように思われる。

表74 農地改革による小作地率の変化 

表74 農地改革による小作地率の変化 


表75 若狭と越前の小作地率の変化 

表75 若狭と越前の小作地率の変化 
 福井県が、農地改革に対する地主の抵抗運動がとくに強い県であったわけではないことや、一般に、規模の大きい地主が多い県ほど小作地の減少率が高かったことを考えあわせると、福井県の小作地面積の減少の割合が低いのは、福井県全体として中小地主の占める割合が高かったため、と考えるのが自然であろう。
 なお、農地改革がほぼ完了したのをうけて、つぎの農政の日程にのぼってきたのは交換分合の問題であった。農地改革によって多くの自作農が誕生したが、ただでさえ一農家あたりの農地面積が狭いのに加えて、それがさらに各地に分散していることもあって、効率性がはなはだ悪いといううらみがあった。このため一九四九年(昭和二四)六月、「土地改良法」が制定されると、福井県でも五〇年に「福井県農地等交換分合事業推進要綱」を定め、五か年計画で農地の交換分合に着手した。初年度は一〇村がモデル地区に指定され、翌年さらに二五村に拡大されたが、計画はかならずしも順調には進まなかった。たとえば、五一年度の交換分合予定面積は全県で三六〇〇町歩であったが、その達成率は五二年二月の段階で、わずか一五・六%にすぎず、最高の坂井郡木部村でも四六%であった(『福井新聞』52・2・19)。そのもっとも大きな理由は土地改良がうまくともなわなかったためと考えられ、県はこの後土地改良(区画整理・農道整備・用排水路整備等)を重視した交換分合へと指導方針を変更していくことになった。



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