このため、福井県は一九四九年(昭和二四)七月二〇日に、「農家小組合活動促進要領」を発表し、「農村民主化と農村発展の実践団体として」各集落ごとに任意的な農家組合をつくらせ、農協との密接な関係のもとに、農業生産の増強、農家経営の合理化などを積極的に推し進めようとした。このような、県主導の農家組合の結成に関しては、それがあまりに「お役所流儀の官僚的独善主義」であるとして、農協側が態度を硬化させる場面もあったが、結局この要領にもとづいて、各集落を中心に農家組合がつくられることになった(『福井新聞』49・7・21、8・3)。
標準的な農家組合の組織はつぎのようなものであった。まず、農家組合は、原則として一集落を基本的な単位として組織され、集落の名を冠した農家組合名がつけられた。そして、その集落内に住み、農業を営む者をもって構成され、加入・脱退は自由とされた。役員として組合長一名、副組合長一名が選ばれ、そのほか世話人が若干名おかれた。さらに、担当業務ごとに、庶務係・生産係・経営係・農地係・文化係などの各係がおかれた。毎月一回以上の定例会が開かれ、組合の経費は組合員の負担金を中心に、労力奉仕・補助金・寄付金などによってまかなわれた(福井県・福井県指導農業協同組合連合会「農家組合のしほり」)。
組合の業務は、生産増強、経営改善、土地改良、生活改善など、農村生活に関連するほとんどすべての分野におよんだが、その多くは、農協の下請業務的な性格をもっていた。とくに重要な問題は定例会で話し合われたが、日常的な事がらに関しては、組合が直接組合員へ連絡し、意見や購入・販売希望の集約を行った(神谷区有文書)。
ともかく、新しい組合は、戦前の上意下達の国策型の団体とは異なり、「真の隣保共助の精神」(「農家組合のしほり」)にもとづいた団体として、加入・脱退の自由も含めた自由な活動が保証された。そして、農協の下部組織的な色彩は濃いものの、国・県・市町村の農政遂行のための最末端組織としての役割をも果たしていくこととなった。 |