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 第三章 占領と戦後改革
   第二節 政治・行政の民主化
    一 新制度の発足と指導者層の交代
      知事公選
 住民に「地方自治」を最初に感じさせたのは首長の公選であった。新しい地方制度は、基礎自治体としての市町村とそれらをいくつか包含する広範な自治体としての府県のいわゆる二層制をとり、住民に対してそのいずれについても直接選挙により首長を選ぶ道を開いた。福井県においても一九四七年(昭和二二)四月五日、知事と市町村長の選挙が行われた。初の首長公選について簡単にふれてみよう。
 初代の公選知事となったのは、選挙に出馬するために四七年三月一四日に辞任するまで知事をつとめていた事実上の最後の官選知事小幡治和であった。形式的には、最後の官選知事は三月一四日に任命され一九日に辞任した吉川覚であるが、この人物は赴任しないで兵庫県で退官した。四月一六日に小幡が三七代の福井県知事に就任するまでの間、内務部長の北栄造が知事代理をつとめた。
 小幡は四六年一〇月に内務省人事で福井県に赴任したエリート官僚である。赴任までは福井県とのかかわりがまったくなく、前任地大阪(府の経済・内務部長、近畿地方行政事務局次長をつとめた)の人びとからも、初の知事公選への出馬を乞われていたが、結局彼はその政治家としてのキャリアの出発点に福井県を選んだ。
写真52 小幡治和

写真52 小幡治和

 しかし、官選知事時代に小幡は米の供出にその辣腕ぶりを発揮し、軍政部の後押しをうけつつ農村から米を出させ、供米達成全国一位などの記録を打ち立てたりしていた。供米は戦後は個人責任制をとる建て前であったが、集落の共同責任制のような手法を使いながら成績を上げたのである。また、東京帝国大学法学部卒業後ただちに任官し内務省の役人として出世コースを歩んできた人間にありがちなことだが、時に傲慢に見える振舞があったりもした。演説は訓話調で、頭を下げることを大の苦手としていた。そのため農民層から反感を買い、農民連盟から弁護士の稲沢清起智が立つにおよんで、広範な農村の反小幡、反官僚のキャンペーンが展開され苦戦を強いられることになった。結局は小幡に出馬を乞うた坪川信一らの巧みな選挙戦術などで勝利をおさめることになるが、この経験は小幡県政第一期の対農民政策に少なからず影響をあたえているといえる。彼にも官の牧民思想から一歩踏み出すことを求められたのである。小幡が当選後すぐに掲げることになったいわゆる「六大振興対策」の筆頭には農地乾田化対策があげられている。その後も彼は農村対策に意を用いて、二期目を北栄造と争ったさいにはついに農村からの支持を集めることに成功していた。県民にとっても、今までは彼らの意思に関係なく上からの命令で代替わりしていた知事が、自らの投票で選べる制度となったために彼らに頭を下げる存在となった、という経験をしたのである。地方自治、民主主義を実感させられる経験であった。
 供米や戦災者、引揚者の救済などの全国的に一律の事務を地方が実施する必要があったことを考えると、解体される前の内務省が徹底した分権に不安を抱きこれに抵抗していたことも一定理解できる。結局は総司令部民政局の意向をうけて最終的には知事は公吏となり集権的体制は解体された。しかし、機関委任事務として国の事務を自治体の首長に執行させることで全国的事務の統一性が保たれることとなり、その意味で内務省の意向もいれられた。このことが現在地方分権の問題を考えるさいの障害の一つとなっていることも事実である。また、公吏として地方の事務を担うといっても、国の事務も含めた広範な事務に通暁した人材を地方にいきなり求めることにはいささか無理もあり、結局新任知事四六人中二四人が選挙直前に退官した前官選知事であった(村松岐夫『地方自治』)。内務省は解体したが、内務省の人脈は残ったのである。



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