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 第三章 占領と戦後改革
   第二節 政治・行政の民主化
    一 新制度の発足と指導者層の交代
      県庁人事
 小幡知事は、一九四七年(昭和二二)四月一七日、初登庁した。彼が最初に手をつけたのは県庁機構の改革とそれにともなう一連の人事であった(第三章第二節二)。初の公選知事であるとともに、内務省の人脈も引き継ぐ知事であった小幡の立場は、第一期の人事のなかにもみてとることができる。
 小幡は四八年年頭、県庁職員に対して以下の庁員五則を訓示し、公僕としての県庁職員の意識改革を求めた。五則とは、(1)仕事のための仕事でなく、あくまで県民の身になって、県民のための仕事をすること、(2)公選知事を中心として、全庁員が一体化すること、(3)能率の向上をはかること、(4)自分の仕事に責任を持つこと、(5)全庁員明朗親和をはかること、である(『福井新聞』48・1・7)。天皇の官吏であり中央地方を貫く集権的国家機構の一員であったものが、自治体の職員となり公僕となったのであるから、まず、意識のあり方から変えねばならないのであった。これにあわせて、彼のこうした姿勢をも反映するかたちで県庁機構の改革がなされたのである。
 従前の三部一官房を改めて、総務、教育民生、経済、農地、土木、警察の六部を整え、知事官房を廃し、かわりに総務部に調査課、秘書課と県民相談所を設けた。また、これにかかわって最初に手をつけた人事は坂井地方事務所長松田清次の庶務課長への起用であった。彼は、当面、調査課長と人事課長を兼任することも命じられた。これは四月一八日の発令で新知事最初の人事である。部制がかたちを整えていくなかで、最初の大きな人事異動が四七年五月二三日に発令される。このなかで注目されるのは新設の秘書課長と松田に兼任させていた人事課長である。この知事にもっとも近いとされる二つの課長ポストには二人の警察畑出身者を抜擢した(『福井新聞』47・5・13、24)。
 また、副知事には前総務部長の北栄造、出納長には前経済部長の安立信逸が就任した。北は年齢的には小幡より上であるが、いろいろ苦労して内務官僚となったため役人としては小幡を先輩としてたてていた。栃木県で小幡が警察部長をつとめていたおり、北は学務部長で四六年一一月に内務部長兼教育民生部長として福井県に赴任した。北が希望し小幡が引っ張ったのだと後になって小幡は語っている。その後二人は政治的に対立することになるので、北はそうした事情を否定しているが、このときの小幡の気持ちとしては、選挙で痛い目にあったので、役人として確かで気心も知れ、庁内のことをまかせられる人物を副知事としておき、自分は庁外に精力的に出て県民と接触したかったということであろう。安立もまた小幡より年上の内務官僚であった。彼は四六年七月に経済部長に着任し一〇月着任の小幡とともに供米に奔走した。四七年五月に人事異動で長野県労働基準局長に就任することとなっていたが、本人が福井県への残留を希望して内務省を退官したので小幡がこの希望を聞き届け出納長にしたということになっている。
 その他、各部長には地方自治法以前の内務省人事で着任しそのまま留任した者も含んで、ほぼすべてがキャリア官僚である。
 これに加えて、部課長のなかには小幡が大阪時代に懇意にしておりその縁で呼び寄せた人びともいる。農林部長、門田一は四八年一月一五日に着任した。長谷秀夫商工課長(のち経済部長)も大阪時代の部下である。
 福井県に優秀な人材を集める、というのが小幡の言い分ではあったし、それはあながち嘘ではなかったわけだが、内務省が解体された後、旧官選知事から公選知事になった人びとには内務省関係者から職員の採用の要請もあり、キャリアのなかでもとびきりのエリートであった小幡には断りきれない筋も多かったのだろうと推測される。



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