敗戦後、ただちに執り行われたのが、各地に分散収容されていた連合国の捕虜および一般抑留者の解放であった。終戦時に福井県下の捕虜収容所で強制労働に服していた捕虜は、敦賀市に三八二名、武生町に二一〇名、大野郡阪谷村六呂師に約八〇名である。彼らは終戦と同時に労働を停止し、五日後には解放された。解放された捕虜に対する当面の衣料および食糧は、連合国軍の航空機により投下されたが、投下物資の探索、収集などは所轄警察署の業務とされた(『福井県警察史』2)。武生町ではこうした物資の落下傘投下により家屋の破損被害や負傷者を出し、それを知った捕虜たちが自らの配給品を出しあい被害者を見舞うということもあったという(『福井新聞』45・9・5)。
捕虜たちは一九四五年(昭和二〇)九月一六日、本国送還のために横浜に集められることになり、県警察部輸送課が約二台のトラックを出して彼らを福井駅に運んだということである。六呂師からの捕虜も午後一時に福井市に到着し、市内見物ののち午後五時の臨時列車で福井県を去ったとされている(『福井県警察史』2)。
さて、捕虜の移送は本格的にアメリカ軍が進駐する前に日本の警察の手によりなされたわけだが、いよいよそのつぎの段階ではアメリカ軍の進駐を迎えることになる。福井県への占領部隊の進駐は、本土侵攻のダウンフォール作戦(九州上陸のオリンピックと東京侵攻のコロネットの両作戦からなる)にかわる平和進駐のブラックリスト作戦計画にしたがい、四五年九月末に、アメリカ陸軍第六軍に属した第一軍団の第三三師団第一三六歩兵連隊第二大隊があたることに決定し、その旨、県に対して通告された。一〇月一三、一四日に、この部隊に所属するマッケンジー中尉指揮下の九名が敦賀郡粟野村の旧敦賀連隊兵舎(敗戦時、中部第一三六部隊)の下検分を行ったのが本県にアメリカ軍が記した第一歩であるが、一七日にはカルメイヤ中尉以下一五名が先遣隊として元植山別荘に進駐し、旧陸軍関係の接収業務を開始した(『敦賀市戦災復興史』)。
同二五日には大津より列車で到着したランパータ少佐指揮下の三一七名(うち将校一四名)が粟野村の中部第一三六部隊に入り、ケッセル大尉指揮下の一個中隊約四〇〇名が今立郡神明村の旧鯖江連隊兵舎(敗戦時、中部第八部隊)に分駐した(『福井新聞』45・10・26)。さらに一個分隊が高浜町へ派遣された。
指揮官ヘーゲン中佐が大隊主力を率いて到着したのは一一月六日のことである。これに先立って県側では、占領部隊の受入れを準備するために福井県渉外事務局(一〇月四日)および福井県進駐軍受入連絡委員会(一〇月一一日)を設置した(県告示第三五九、三六二号)。敦賀市においても一〇月一八日に進駐軍受入準備委員会が開かれ、「連合国軍進駐ニ伴フ心得」の配布や、慰安施設の設置がなされた(資12下 二、『敦賀市戦災復興史』)。市民に配布された上記の諸注意は、はじめて体験する外国軍隊の占領という事態をうけての緊張感をよく表現しているし、当日の進駐の模様を伝える新聞記事は、アメリカ軍に存外占領者としての横柄さを単純に表現する行動があまりなかったがゆえの安堵感を伝えている。 |