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 第三章 占領と戦後改革
   第一節 占領と県民生活
    一 米軍進駐と福井軍政部の活動
      軍政部隊の登場
 占領政策の地方レベルにおける進捗を監視、援助する役割を担った軍政部隊が上述の実戦部隊とは独立して設置されたのは、一九四五年(昭和二〇)末から四六年はじめであった。福井の軍政を担当した第一〇三軍政中隊設置の日付がアメリカ軍の公式記録で語られているものによれば、この中隊は、四六年一月二〇日付で福井県における軍政部隊としての任務についたとされている("Monthly Labor Report" GHQ/SCAP RECORDS Sheet No.ESS(H)-00274。
 ただ、公式にはそのようであっても、彼らが四五年末の早い時点で敦賀にやってきていたことは間違いないと思われる。軍政部隊の初代指揮官だったハイランド中佐の通訳として活躍することになる高山成雄氏(東京在住)も、所属部隊(中部第一三六部隊)が解散し(一一月一日)、さきの弾薬海中投棄作業が行われているころ(この作業は四五年一月一八日より一二月一六日まで行われた)、ハイランドから福井に残留して通訳として働くよう懇請されたと証言している(一九九一年三月実施の聞取り)。
 この第一〇三軍政中隊の管轄地域は、一時期、福井県・京都府に変更されるが、四六年七月の地方軍政組織の再編によって一府県一軍政部体制が確立され、福井軍政部・(Fukui Military Government Team)と改称された(阿部彰『戦後地方教育制度成立過程の研究』)。日本の降伏が予想外に早く、また、武装解除も順調に進んだために、占領地域の行政を担当する軍政の専門家の養成が間に合わなかったという事情もあるし、当初予定していなかった朝鮮半島にもアメリカ軍が展開することになり、本国で養成していた軍政官の多くがそちらにとられたということもあり、この第一〇三軍政中隊も複数の府県にまたがって東奔西走させられることになったのである。
 この四六年七月には全国の軍政部隊を統括する第八軍の体制も整備された。第八軍は第一と第九の二個軍団を擁し、横浜の軍司令部が特別地区とされた東京・神奈川と四国、中国の各県を、京都の第一軍団が近畿、東海北陸、九州各県を、また、仙台の第九軍団が北海道、東北各県、東京・神奈川をのぞく関東各県をそれぞれ管轄下においた("Eighth Army Military Government Organization and Activities" GHQ/SCAP RECORDS Sheet No.CAS(B)-01318)。
 第一〇三軍政中隊も開設当初の福井軍政部も、本部は敦賀市におき、福井市には分遣隊を設置していた。敦賀市の元ソ連領事館を将校宿舎、同市の三和銀行(現敦賀市立博物館)二階を下士官兵宿舎、三階を事務所に改造し、そこに入ったのである。また、福井市では人絹会館二階の一隅を支所とし、宿舎を芦原町のべにや旅館に定めた(『大正昭和福井県史』下)。
 しかし、県行政への監視を効率的に行うためには敦賀は不便であった。当初第一〇三軍政中隊が京都府(とくに舞鶴)を管轄していたこと、敦賀には旧連隊の衛戍地や軍港があったことなどの関係から軍政部隊の本部も敦賀におくことになったわけだが、彼らの主たる任務が県の占領改革関係諸施策の実施状況の監視に重点を移してきた段階で、本部を福井市に移駐するのである。この移転の期日もはっきりしないが、県の渉外課のまとめた資料によると、福井市の人絹会館一、二階を接収して事務所として大改造を施し、また織物会館に独身将校、下士官兵の宿舎と食堂を設け、酒伊商事ビル三階に軍政官の宿舎を設営し、さらに、福井警察署前の葵公園に家族住宅を建設した。この資料によれば、四六年の一月に福井支所を閉鎖、かわりに、武生・敦賀・小浜の各地に支所を設け、本部を福井市に移したのである(『大正昭和福井県史』下)。
 指揮命令系統については、当初近畿地区(Region)軍政部の下にあったが、四八年九月二五日以降、東海北陸地区軍政部に変更され、第八軍―第一軍団―東海北陸地区軍政部―福井軍政部というラインが確立した。さらに、四九年七月に「軍政部」から「民事部」(Civil Affairs Team)への呼称変更がなされ、つづいて一一月三〇日かぎりでの都道府県民事部の廃止、業務の地区民事部への移管が決定されるにいたって、福井民事部もその業務を停止した。
 なお、「進駐軍」については実戦部隊・軍政部隊とは別に、かなり早い時点から進駐していた第四四一対敵諜報支隊(441th Counter Intelligence Corps Detachment:CIC)の分隊にも触れねばならない。これは参謀第二部(General Staff-U:G-U)につながる組織で情報収集活動をその任務としており、福井にもその分隊があったことは福井軍政部の「月例報告書」などにその存在が示されていることでうかがい知ることができる(資12下 「付録」)。一般にはこの部隊は占領に対する日本側の反応などをさまざまのメディアを通じて収集し、上級機関に送ることを任務としており、福井にはジャクソン少尉以下七名が四五年一一月一一日にやってきて福井銀行の一部を接収し、調査活動を開始したということであるが、その詳細については、不明である(『福井新聞』45・11・21)。



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