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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    四 戦時統制経済下の工業・金融
      軍需産業への転換
 日中戦争期から日本経済の軍事経済化・重化学工業化傾向が顕著となったが、福井県は、人絹王国としてその影響をあまりうけなかった。繊維産業が、「平和産業」「不要不急産業」という位置づけがなされても、福井県の業者は輸出振興や国民衣料の確保、大東亜共栄圏への衣料供給と目的を変えながらも、繊維産業の存在意義を主張し続けた。しかし、原糸配給量が削減され、縮小生産が明確となった一九四三年(昭和一八)には、繊維製品の計画生産のための企業整備から、軍需産業(時局産業)への資材・設備供出のための企業整備へと事態は進展した。絹人絹統制会は、四三年二月に企業整備委員会を開き、遊休織機の供出を決め、福井県の割当は、所有織機の三割程度とされた。ところが、含有鉄量を調査したところ、福井県では半木製織機が多いために三割ではたりず、四割供出と改められた(『福井新聞』43・2・5、18、6・6)。
 前年の四二年から軍需工場誘致の動きも活発となった。福井市は、国際航空工業株式会社の誘致に成功した(『福井新聞』42・9・15、10・18)。繊維工場の軍需工場への転用も考えられ、四三年四月には海軍電機工業会通信部会から視察団が訪れ、福井市、春江・武生町、朝日村、大野・勝山町の繊維工場を視察した(『福井新聞』43・4・23)。 写真38 織機の供出

写真38 織機の供出

 四三年七月二九日の商工次官通牒により二〇〇坪以上の織物工場の軍需工場への転用方針がうち出され、都道府県に企業整備委員会および同専門部会を設置し、年内に実施することが決められた(『福井新聞』43・7・30)。これ以後、織物工場の転用が本格化する。
 島崎織物は、三八年から東洋棉花株式会社の傘下に入っていたが、四三年には横河電機株式会社の下請工場となった(『東洋棉花四〇年史』)。酒伊繊維工業は、三八年に新設した小浜工場を産業設備営団に売却しこれが四三年九月芝浦製作所に貸与された。酒伊繊維自体も富士通信機製造株式会社の技術指導をうける契約を締結し、酒伊通信工業と改称し、福井市の織布工場を航空機用および海軍用通信機生産にあてた(「大正昭和福井県史 草稿」、『福井新聞』43・8・25)。山田仙之助も、西田中工場を東洋電気、舟津・武生工場を国際航空工業に提供した(『福井新聞』43・8・29)。勝山兄弟は、落下傘用絹布、陸軍被服など軍需生産を行ったが、繊維製品であることは変わらなかった。中小機業家もたとえば春江町の機業家が国際航空工業春江工場としてプロペラ生産に従事した(『大正昭和福井県史』上)。表62に、四四年五月に存在した県内主要七五工場名を列挙した。繊維以外の重化学工業が大半を占めていることが推測される。

表62 決戦勤労安全強化週間の県労政課視察予定表(1944年6月1日〜7日)

表62 決戦勤労安全強化週間の県労政課視察予定表(1944年6月1日〜7日)
 このように人絹王国、織物王国といわれた福井県は、太平洋戦争期に大きく産業構造を変え、敗戦をむかえることになるのである。



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