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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    四 戦時統制経済下の工業・金融
      企業合同
 一九四〇年(昭和一五)一月から人絹織物個人リンク制が実施され、三月には「輸出人絹製品配給統制規則」により法制化された(『福井県繊維産業史』)。ところが、四月以降に輸出不振に陥り、輸出振興策としての個人リンク制は効果を示さなかった。表60によると前年までは漸減傾向をたどってきた輸出高は四〇年には前年比三八・三%減となり、福井県の輸出向け比率も大きく落ち込んだ。この時期の福井県では、公定価格の有利、「生糸配給統制規則」による原糸配給円滑化により内地向け絹人絹交織物が急増していた。

表60 戦時期の絹・人絹織物生産と輸出(1937〜45年)
表60 戦時期の絹・人絹織物生産と輸出(1937〜45年)
 六月には人絹連合会から日本輸出人造絹織物工業組合連合会(人工連)への原糸供給を従来の半分である月二万函とした。また、日本人絹織物輸出振興株式会社(人絹連合会・人工連共同出資)、日本人絹糸布輸出振興株式会社(輸連出資)を創立し、従来の人絹織糸リンク運用委員会の権限をうけ継ぎ、四一年一月から業務を開始した。日本人絹織物輸出振興株式会社は、輸出向け普通糸の賃織を行ったが、福井県では二月までに契約完了が七二五疋と低調で、機業家の関心は絹人絹交織物にむいていた(『福井県繊維産業史』)。
 四〇年七月に第二次近衛内閣が誕生し、新体制運動が活発となると、織物業の企業合同(「機業合同」ともいわれる)が提唱されるようになった。四〇年一一月四日に金沢市において商工省主催北陸物資動員懇談会が開かれ、高度国防国家にむけた軽工業の再編成を目的として企業合同の具体的方針が提示された。その内容は、絹・人絹織機は広幅は一五〇台、小幅は三〇〇台を最低台数として企業合同を行うこと、合同形態は、(1)株式会社、合名会社、合資会社等商法に規定する会社、(2)有限会社、(3)工業組合法による工業小組合、(4)有力な者を中心としたブロックのような任意組合や申合組合、の四形態のいずれかとすること、四〇年一二月末までに中小機業家の整理統合を完了し、以後、これら統合体に生産命令を発し、生産・配給・消費を計画的に統制する、というものであった(『人絹』40・12)。
 その後、商工次官通牒「織物製造業者ノ合同ニ関スル件」(四〇年一一月二一日)として確定したが、商工省の説明では、企業合同は強制しないが本格的指定生産が行われる四一年四月までには完了すること、人絹広幅織機一〇〇台未満の者への原糸配給を中断する、などとされ機業家をあわてさせたが、その一方では経済新体制論争のなかで小林一三商工相が中小企業の維持育成を説いたことが合同方針緩和とうけとめられ、合同への動きは停滞していた(『人絹』41・1、6)。
  表61に企業合同の進捗状況を掲げた。四一年二月から六月まで全国では合同が進展したものの、福井県ではほとんど進展しなかった。この理由として、合同方針が一定しないことに加えて、内地向け絹人絹交織物景気が続き、輸出向け人絹織物の指定生産をうけるための合同が忌避されたこと、県当局が有限会社による合同を勧奨したが、機業家の実態に適さなかったことがあげられよう。全国では、工業小組合形態での合同が大部分であったが、福井県では、六月段階の三三の統合体のうち三一が有限会社、二が商法による会社であり、工業小組合は一つもなかった(『人絹』41・8)。また、リンク制に対応すべく福井県で三〇あまりも結成された機業家ブロックは、四つの合同形態のなかの任意組合に該当していたが、企業合同が提唱された時期にはそのほとんどが解散もしくは自然消滅の状態にあった(『人絹』41・6)。

表61 企業合同状況
表61 企業合同状況
 しかし、絹人絹交織物の新公定価格設定、生糸配給減により絹交織景気にかげりが生じると、六月下旬以降に合同が急速に進みはじめた。七月末までにあらたに三八の工業小組合が設立認可され、織機ベースでみた合同達成率は二〇・九%に達した(『人絹』41・9)。四二年四月一日時点において合同体数は工業小組合一三一、有限会社一〇六、株式会社二〇、合資会社三七、合名会社二、任意組合二九、個人経営一一、計三三六となり、合同不要とされた大規模経営七四とあわせて四一〇の経営体となった。織機台数をみると、一〇〇台以上二〇〇台未満経営が二五二、二〇〇台以上経営が一二三となっている(『人絹』42・7、8)。
 企業合同とともに工業組合統合も行われ、県下二七の織物関係工業組合は、四一年一二月に福井県織物工業組合として統合された(『大正昭和福井県史』上)。全国では近衛新体制のもと、繊維種類別に四つの統制会を設立することとなり、絹人絹統制会は四二年一〇月に設立され、原糸生産から織物配給まで網羅的に統制できるようになった。指定生産も順次拡大され、四二年一〇月からは人絹織物、絹人絹交織物のすべてが指定生産とされた。また、配給制の強化にともない、絹人絹織物製造統制会社が設立され、人工連の原糸配給などの業務はすべてうけ継がれ、人工連は一一月をもって解散した。機業家(統合体)は、絹人絹製造会社の賃織を担当することになった(『福井新聞』42・11・15、43・1・30)。
 流通の面でも企業合同が行われた。四一年一一月一四日、「繊維製品配給機構整備要綱」が出され、絹人絹卸売業者を四分の一に減らす方針が示された(『福井新聞』41・11・26)。この方針にもとづき絹人絹中央配給統制会社(中配)設立が準備されたが、福井県の卸売業者は、中配が東京、大阪、京都など「大集散地集中主義」であり集散地たる福井を無視していると批判し、福井県織物振興株式会社設立にむけて運動した(『人絹』42・1)。四月に福井県織物振興株式会社は設立し、社長に久保義隆(福井県織物工業組合理事長)、副社長に酒井伊四郎、西野幸作が就任し、中配の代行人として大集散地と同様に集荷、染色・加工、配給業務を行うことになった(『福井新聞』42・2・11、4・3)。
 また、人絹王国福井の象徴でもあった人絹取引所は日中戦争開始以来、事実上の開店休業を続けていたが、四二年一月末日をもって解散した(『大正昭和福井県史』上、『福井新聞』42・1・30)。なお、絹人絹統制会に織物検査を移管し、財源難に陥っていた福井県織物同業組合は、四三年初頭から解散説が唱えられていたが、翌年六月に解散し、社団法人福井県織物協会をあらたに設立した(『福井新聞』44・6・18)。
 このように、織物業の生産・流通構造は大きく変わったが、表60にみられるように、生産・輸出は縮小の一途をたどり、四三年からは、織物業の軍需産業(時局産業)への転換、廃業が実施されることになる。



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