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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    四 戦時統制経済下の工業・金融
      金融統制と織物金融
 基幹地場産業である人絹織物業は、金輸出再禁止後の為替安を突破口にした輸出増大によって一九三二年(昭和七)にいち早く恐慌から脱出し、三八年には福井産地の人絹織物生産量は全国の六八・三%を占め、「人絹王国」の地位を築いた。三二年の約三万七〇〇〇台の織機台数は三八年には約九万台にふえている。四〇年の人絹糸の統制強化以降衰退するが、日中戦争期の人絹織物業の発展はめざましかった。この発展を金融面で支えたのは機業家の自己蓄積を別とすれば、福井銀行の織物金融であるが、同行の諸貸出金の伸びは意外ににぶく、預貸率ではむしろ低下している。貸出の相対的停滞の原因は何か。三七年九月に公布された「臨時資金調整法」による設備資金統制の影響があったのかどうか。これらの点について若干立ち入って検討してみよう。
 まず、設備資金統制の影響の検討からはじめよう。法律がめざす軍需産業以外の部門への設備資金流出を抑えるための実際の運用については、日本銀行の協力を得て個別銀行が自主調整することになっていた(『福井銀行八十年史』)。では、日本銀行の態度はどうであったか。岩坪友至日本銀行金沢支店長は三八年五月に開催された福井県銀行同盟会総会での記念講演のなかで、絹および人絹織物を「本邦重要輸出品」と位置づけ、「業者の資金疎通の順便を期せられたい」と、積極的な貸出を要請している(福井銀行本店所蔵文書)。日本銀行は人絹織物業を外貨を獲得する「時局産業」として位置づけていたのである。したがって、設備資金貸出統制の枠外であったわけで、貸出の相対的停滞の要因は福井銀行の経営構造のなかにあったといわざるをえない。
 人絹織物業が好況にむかった三二年以降の織機増設とその資金について、『福井銀行八十年史』は「新規資金の需要を相当に呼びおこしたが、なお一般に不況に対する警戒心は根強く、そのため業者の増設資金も、多くは自ら得た利潤をもって支払われるのが通例であった」と述べている。この記述は福井銀行の貸出は一部優良機業家を例外として消極的であったことを裏づけているが、同行にそのような慎重な態度をとらせたものは何だったのであろうか。
 同行は二七年から一〇年間、、毎営業期に不良債権償却費を計上し、合計は六三万九〇〇〇余円にのぼっている。当時の同行の半期の純利益は一五万円程度であったことを考えると相当の金額である。同行も金融恐慌・昭和恐慌の過程で多額の不良固定債権をかかえ込み、貸付内容の良質化を至上命題として取り組んでいたので、貸出には慎重にならざるをえなかったとみられる。低利潤でも安全な有価証券、なかでも国債の所有に資金運用の基軸をシフトしていった背景もここにあったのである(『福井銀行八十年史』)。



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