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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    一 翼賛体制の成立
      官製諸団体の統合
 一九三八年(昭和一三)産業報国連盟が結成されると、県工業課は、時局下の「産業報国」「労資一体」の精神発揚のため産業報国会設立奨励の通牒を出した。同年一一月に大野町の筒井機業場の従業員一九〇人で産業報国会が結成されると、新聞は「非常時が生んだ新労働組合」と報じた。翌三九年に入ると組織化は急速に進展し、同年末には一八二事業場に一〇六の産業報国会が結成され、会員数も二万五〇〇〇人をこえた。また、このころには福井県勤労(労働)同志会はじめ昭和戦前期の労働争議を主導した労働組合は、ほぼ完全に解散に追い込まれていた(『福井新聞』38・11・20、25、資17 第619表)。
 さらに、翌四〇年六月二三日の福井県産業報国連合会結成時には、四八五団体、二九八二事業場、会員数六万二〇〇〇人となり、県下約七万人といわれた労働者をほぼ網羅するまでに拡大した。同日の創立総会で、連合会の会長に木村清司知事、副会長に久保義隆が推せんされるとともに、連合会の結成により、福井県工場協会は解散した。県下においても産業報国会が労務衣料や生活物資の配給ルートになっており、こうした経済上の理由が、同会の急速な拡大を可能にしていたのである(『大阪朝日新聞』40・6・23)。
 同年一一月に大日本産業報国会が結成されると、県連合会もその下部組織として改組され福井県産業報国会となり、運動も従来の精神運動から生産力拡充・戦力増強にその重点が転換されていった。さらに太平洋戦争が開始されると、四二年四月には、県支部に事務局が設置され総務・事業の二部がおかれ、事務局長には県労政課長が就任し、より強力に企業戦士の育成をめざした。しかし、同年六月には大政翼賛会の傘下に入り、政府の労務動員などの補助機関化していった。産業報国会は、総動員体制のなかから生まれたものではあったが、ほぼ全労働者をおもに企業別に組織したのであり、戦後の労働組合の急速な結成を可能にした一因でもあった(『福井新聞』42・4・12、『資料日本現代史』7)。
 四二年五月、政府は大政翼賛会の機能を強化するため、前述の大日本産業報国会や農業報国連盟、商業報国会、海運報国団、大日本青少年団、そして大日本婦人会の六団体を翼賛会の傘下に統合することを決定した。日中全面戦争以降、応召兵の増加のなか、銃後における婦人の果たす役割への注目がいっそう高まり、県下でも愛国婦人会(愛婦)と国防婦人会(国婦)が競うように、千人針、応召兵の送迎、慰問袋送出、遺家族慰問などの活動を行った。
写真24 慰問袋づくり

写真24 慰問袋づくり

 四〇年に入り、戦時色がますます色濃くなり、一方では新体制運動がおこると、婦人会の統合問題が議論されるようになり、福井県でも同年一〇月には鯖江町で愛婦と国婦の合併が全国にさきがけて策されていた。翌四一年二月には県選出代議士の斎藤直橘が、国会で福井県では愛婦会員七万六〇〇余名、国婦会員八万五〇〇余名であり、そのうち七万名は両会員を兼ねているとし、統合を建言した。これをうけて、政府も六月に愛婦・国婦・大日本婦人連合会などの統合を閣議決定し、翌四二年二月には二〇歳以下の未婚者をのぞく全婦人を網羅した大日本婦人会が結成された。福井県支部(支部長清水くに)の発会式も同年五月一四日に行われ、それ以降、婦人勤労報国隊の結成など「戦ふ婦人」の団結と実践がより強調されるようになる(『大阪朝日新聞』40・11・29、41・2・14、6・12、42・5・14)。



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