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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    一 翼賛体制の成立
      翼賛選挙の実施
 東条英機内閣は、延期されていた衆議院の解散総選挙を一九四二年(昭和一七)四月三〇日実施と決定した。対米英戦争の緒戦の勝利を利用して、内閣に有利な選挙を行い、議会を自家薬篭中のものにし、翼賛体制の強化をはかろうとしたのである。政府は政事結社である翼賛政治体制協議会(翼協)結成を誘導し、翼協の推せん候補者の当選のためさまざまな援助を行った(升味準之輔『日本政党史論』7)。
 福井県翼協支部の支部長には、難航の末、三月一八日に大政翼賛会常務委員でもある七三歳の野村勘左衛門が選ばれた。ほかに表38のように一四名の委員が選ばれ、うち高島、森、近藤、田保の四名が幹事に指名された。県支部委員には翼賛会や翼壮関係者が幹事として入っているほか、元福井県労働同志会顧問柳下彦雄や軍人二名が指名されており、またなにより福井県の場合、五名の県会議員や現町長・元県町村長会長が指名されているところに大きな特色があった(『大阪朝日新聞』42・3・24〜26)。

表38 翼賛政治体制協議会県支部会員 
表38 翼賛政治体制協議会県支部会員 
 それは、翼賛会県支部常務委員の選考過程と同様であり、こうしたいわゆる旧体制を尊重した委員の指名は、推せん候補者決定過程を難航させ、最終決定は選挙告示日の直前までずれ込んだ。最終的には添田敬一郎(旧民政・嶺南)、猪野毛利栄(旧政友・奥越)、斎藤直橘(旧民政・福井市)の三名の現職と県会議長の酒井利雄(政友系・坂井郡)と元満鉄理事の中西敏憲(民政系・丹南)の新人二名のあわせて五名が推せん候補者となり、その選考基準には旧来の旧政党と出身地盤に重きがおかれていた。またこの選考は、四二年二月時点の警視庁情報課が作成したと思われる「衆議院議員調査表」とも一致している。調査表は時局からみて現衆議院議員を甲乙丙の三ランクに分けて評価しており、福井県では推せん組の猪野毛、添田、斎藤が乙に、非推せん組の池田七郎兵衛と熊谷五右衛門が丙に評価されていた。県翼協支部の選考過程にはこうした警察や知事の意向がかなり入っていると推定できるのである(『資料日本現代史』4)。
 四月四日に総選挙の告示がなされると、選考からもれた池田のほか、薩摩雄次、斎木重一など一二名の立候補があり、選挙はかつてない激戦となった。選考過程への不満と、乱立が当選ラインを下げるとの予想が、こうした立候補者のいっそう乱立を生んだ。また、一二名中には東京・大阪在住の実業家が多く、県外在住者は五名にのぼった。しかし、自動車のガソリンや立会演説会の制限もあり、選挙戦は意外に低調であった。そのなかで、非推せんの薩摩は精力的に県下を回り、その演説会場には一〇〇〇人をこえる聴衆者が詰めかけるという盛況ぶりをみせていたのが注目された。一方、県や翼賛会県支部、翼協なども、翼賛選挙貫徹運動を展開したが、その運動は棄権防止が中心であり、間接的に推せん候補への投票を呼びかけるものであった。そうしたなか、警察は薩摩を、四月二三日の演説(織物の南方進出におおいに努力するという内容)が利益誘導にあたるとして、不拘束のまま起訴したが、選挙結果にはなんら影響をあたえなかった(資12上 「解説」、『大阪朝日新聞』42・4・24、28、29)。
 開票の結果、表39(表39 翼賛総選挙郡市別得票数(1942年))のように非推せんの薩摩が二万五〇〇〇票あまりと、予想以上の得票数を嶺南と福井市を中心に県下まんべんなく獲得した。推せん過程への不満と時局下の新人待望の世論が、彼のトップ当選を可能にしていた。しかし、酒井以下四名の推せん組の当選は、旧来の地域的選挙地盤による集票の結果であり、福井市で薩摩や斎木などに多くの票を浸食された推せん組の斎藤が落選し、また他の非推せん組は五〇〇〇票以下で、うち長谷川、吉村、渡辺の三名は有効投票数の一〇分の一に満たず供託金を没収された。全体としては旧政党としての地域中心の選挙地盤が依然として強固であり、翼協委員のなかに非推せん候補者の推せん状を発送したものがいるなど翼協の統制が不十分であったにもかかわらず、推せん候補者五名の得票率は六四・一%であった。
 もう一つ注目されるのは、福井県の棄権率が八・五%と全国でもっとも低かったことである(全国平均は一六・九%)。町内会・部落会または隣保班ごとにまとまって神社参拝後に投票所にむかう指導や、投票のすんだ各家には「投票済之証」を掲示させるなど、県が徹底した棄権防止指導を行ったことが、こうした低い棄権率にあらわれていた。内務省・府県行政の末端機構である町内会・部落会がその威力を発揮したのである。それはまた、ひき続き六、七月に行われた二市一三町一五一村の市町村会議員選挙において、より威力を発揮し、推せん候補者の当選率は、市町で八〇%、村では九七%にまで達していた(資12上 二一五、『大阪朝日新聞』42・6・23、7・22)。
写真25 選挙の棄権を戒める回監板
写真25 選挙の棄権を戒める回監板

 こうして緒戦の戦果を利用しての翼賛選挙は、東条内閣の当初のもくろみを一定程度は実現したものの、旧政党政治家の一掃には推せん段階から失敗し、また総選挙後に結成された翼賛政治会(当選者のうち八名をのぞく)も彼らの手で運営された。形骸化されたとはいえ、議会は基本的には政府への潜在的反発集団であり、その反発・不満は戦局が深刻化するにしたがい徐々に表面化し、四四年七月の東条退陣にも隠微な影響力をもつことになる。



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