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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    一 翼賛体制の成立
      翼賛壮年団の成立
 翼賛運動は、それまでの壮年団・産業報国会・婦人会など官製国民運動団体の再編をめざした。また一九四一年(昭和一六)一月、平沼騏一郎内務大臣は、大政翼賛会は「公事結社」であるとして政治活動を禁じるとともに、四月に中央本部の第一次改組が行われ内務省が翼賛会の主導権を握ることになり、大政翼賛会は精動組織となんらかわらないものになった。この翼賛会の精動化に失望した陸軍を中心に、壮年団を翼賛壮年団(翼壮)に統合・改組し、翼賛運動の実践部隊としようとする動きがおこり、四一年九月に大政翼賛会は「翼賛壮年団結成基本要綱」を決定し、翌四二年一月に大日本翼賛壮年団が創設された。
 福井県では四一年二月段階で八二市町村に一〇〇の壮年団があり、団体数において全国第一位であった。この壮年団を新体制に即応させるため、県は同月二六日、「壮年団結成要綱」を作成し、市町村壮年団の改組設置を奨励した。県団長には知事がなり、市町村に網羅主義の壮年団が六〇あまり結成されていた段階で、翼壮の結成方針が出され、県はその取扱いに苦慮したが、一〇月には中央の方針に従うことにした。中央の翼壮のもとに県・郡・市町村の翼壮があるという系統組織であったが、とくに市町村翼壮の結成は、たび重なる組織方法の変更で難航し、四二年三月二七日の県翼壮の結成式直前までかかった。県翼壮は事務局を県翼賛会支部事務局内におき、翼賛会支部長(知事)を名誉団長とし、団長には福井市長で県翼賛会常務委員の落合慶四郎が、副団長には県翼賛会組織部長の田保仁左衛門と同参与の山西太右衛門が名誉団長による指名をうけ、約三〇〇〇人の団員(在郷軍人会員が六、七割を占めた)で発足した(「大正昭和福井県史 草稿」、『大阪朝日新聞』41・2・23、42・2・28、3・28)。
 福井県においては、翼壮団員のなかから大政翼賛会推進員を選んで、両者の密接な関係を保とうとし、また翼賛運動の実践部隊としての役割を果たすため、団員の錬成会をくり返し行うとともに、四二年度には翼賛選挙運動のほか、国民貯蓄・食糧増産・配給消費適正化・健民健兵運動などを行った。なお、翌四三年四月には団長が小浜出身の儀峨徹二中将に代わり、八〇〇〇人の団員にむかって摩擦を恐れるなと訴えていた(資12上 二一二、『大阪朝日新聞』43・6・9)。



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