目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    六 自動車交通の普及
      昭和恐慌期の自動車行政
 一九二八年(昭和三)、自動車事業の監督権が、逓信省から鉄道省に移った。鉄道省では、本格的な自動車政策として、三一年に「自動車交通事業法」を、三三年には「自動車交通事業法施行令」「自動車取締令」を公布して自動車事業への統制を強め、一路線一営業の免許方式など整理・統合を進めた。
 福井県では、三三年に「自動車取締令施行細則」(県令第五八号)「自動車運転免許及就業免許試験規則」(県令第六一号)、三四年には「自動車車庫規則」(県令第六号)、「自動車交通事業法施行細則」(県令第二五号)を定めた。これらの四規則は合計一〇五条で、一九年(大正八)制定の「自動車取締令施行規則」の二一条に比べ大幅に拡充された。「取締施行細則」では、車種ごとの構造、検査、運転免許、用法、罰則などが記されおり、構造では、消防・郵便自動車・自動自転車以外は赤色塗装を禁止、用法では、運行は車幅の二・五倍以上の幅員を有する道路に限定(相互行違可能箇所のある場合は一・五倍)、市街地などでは最高速度は四〇キロメートルとされている。
 また、道路の舗装は、三一年の福井市本町通り(旧国道一二号線)が最初であるが、三三年の陸軍大演習を機に、福井市内の停車場線・毛矢通り・城の橋通り・呉服町通り・八軒町通り、坂井郡の芦原停車場線など、敦賀町の停車場線・津内通り・東港線、小浜町内の幹線道路などで舗装が施工され、その後漸次、各町村の主要道路の舗装も進められた。さらに三四年から、毎月一〇日を交通安全デーと定め、各警察署では定期的に交通安全の取組みが行われた。このような関連法や環境整備からもうかがえるように、自動車は、昭和恐慌下も増加しつづけ、全国的には二六年三万五八〇二台が、二九年には七万一五五五台、さらに三三年には一〇万四九三二台となり、福井県も表32のように同様の増加傾向を示した。
 不況の慢性化と自動車事業の拡大は、鉄道経営に大きな影響をあたえた。勝山町の野辺太蔵が経営する勝山町・大野町間のバス路線が福井市に延長され、越前電気鉄道と競合することになったので、同鉄道を経営する京都電灯は、三一年に同路線を買収し越前自動車株式会社(資本金五万円)を創立し、乗合自動車業に乗りだした(『京福電気鉄道30年史』)。鉄道省でも、三〇年から、愛知県岡崎・岐阜県多治見間などで省営自動車の運行を開始した。福井県の場合は、三五年一二月に小浜自動車所が設置されて、若狭・近江間に省営自動車が運行されることになり、同年に新平野・熊川間が、翌年には小浜・新平野間が開業し、三七年には今津・小浜間が全線開業となり、一八九〇年代に計画された小浜鉄道の小浜・今津間が、省営バスで結ばれることになった。四四年には、大野自動車区が設置され、大野・中竜間に貨物自動車の運行が開始された(「大正昭和福井県史 草稿」)。



目次へ  前ページへ  次ページへ