目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    六 自動車交通の普及
      自動車事業の発展
 福井県の自動車保有台数は、表32のように、一九一九年(大正八)に比較して二〇年は三・五倍、二五年は一三・八倍に増加し、二一年前後には自動車が実用的な交通手段の一つとして考えられるようになった。ちなみに、二五年の荷積用馬車数は最多の一二四二輌で、以後漸次減少している。
 二〇年ころ、荷積用自動車(トラック)が、福井県精練株式会社の織物類運搬や敦賀港での外国人の荷物類運搬に運行した。表32のように、二五年の荷積用自動車の増加は顕著で、小運送業者が県下各地に乱立した。これは全国的傾向で、二六年、鉄道省は安定した貨物輸送体制の確立を企図し、一駅一店の合同と全国規模の統括会社である合同運送株式会社の設立をはかった。福井県でも、福井駅所属の一〇の公認運送店が合同し、福井合同運送株式会社(資本金三〇万円)が設立された。

表32 福井県の自動車保有台数(1919〜38年)

表32 福井県の自動車保有台数(1919〜38年)
 二三年ころには、福井市や敦賀・大野・武生の各方面で乗合自動車の運行がみられる。福井市の場合、赤旗と女車掌が呼びもので、四台で二〇分間隔運転、市内一〇銭均一運賃で人気があった(『福井新聞』24・10・16)。二五年には、個人営業であった市内の乗合自動車業を合同し、福井自動車株式会社(資本金五万五〇〇〇円)が設立され、また、福武電鉄の武生新・福井新間の開業で、福井新・北陸線福井駅間に五銭均一の乗合自動車が運行されるなど、自動車は市民生活の一部となった。二八年(昭和三)、福井自動車の一日平均乗客人数は一九〇八人、福武電鉄では五三四人である(『福井都市計画参考資料』)。なお二六年には福井県自動車運転手会の結成(『福井評論』27・3、『福井新聞』27・2・4)、二七年には、福井県自動車協会の結成、福井市手寄中町に北陸自動車学校の設立、一〇月二日からの交通安全週間実施など、自動車の実用化時代を物語るできごとがあいついでおこっている(『福井評論』27・3、『福井県警察史』2)。
 二七年四月、福井市への「都市計画法」の適用を機に、年末の通常県会で、主要道路の改良四か年継続事業、約六八四万円が提案決議された。年度予算が約六三九万円であるから、自動車交通を目的とする未曾有の大土木事業であった(『昭和二年福井県会決議録』)。当時話題の福井市郊外環状電鉄敷設構想でも、自動車道路を並行して新設する計画が進められている(『福井新聞』27・3・31)。三二年の福井市道路網計画では、市中心部は縦横に、足羽・吉田両郡の都市計画区域では環状に計画され、大部分が自動車交通を前提とした幅員一一メートル以上(その半数は一五メートル以上)であった(『昭和七年公文雑纂』巻四五)。このような道路網は、敦賀、大野、小浜でも計画されている。



目次へ  前ページへ  次ページへ