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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    四 百貨店と中小商業者の動向
      大井デパートと吉野屋百貨店
 だるま屋の開店に続いて、福井県内では一九三一年(昭和六)一二月に武生町に大井デパート、同年同月福井市に吉野屋百貨店が開店した。武生町では目抜き通りの蓬莱町の一角に三〇年夏、鉄筋三階建て(屋上売店を含めると四階建て)、建坪三〇〇坪、総工費一三万円をもってマル井デパートが建築された。しかしマル井デパートはすぐには開店営業にいたらず、一年以上も放置されたままとなった。このため、ようやく翌三一年一二月になって橘町の呉服商大井藤助がこれを引き受け、名前も大井デパートと改め、建物一階で営業を開始した。翌年には全館を使用し本格的な営業を行った。
 大井デパートは、当時大阪の高島屋などが行って評判となっていた一〇銭均一店のような商法を導入し、開店以来押すな押すなの盛況を博した。建物二階は呉服陳列場・新入荷品展示場となっており、ブドウモス着尺・クレヤーモス着尺・フジサン錦紗などの封切り珍柄一〇〇〇反を販売し、買い上げ一反ごとに土産物をつけ、さらに景品として一〇人に三人の割合で新春晴れ着姿の無料撮影サービスを行った。このような大井デパートの出現は、武生町民にとっては「時代の尖端を走るもの」として受け入れられ、武生町の従来の商法に一つの転換をもたらしたといわれる(『武生風土記』、『北陸タイムス』31・12・8、11、26)。
 一方福井市においても、あらたに百貨店が開店した。福井駅前北通り吉野屋呉服店は大衆むけの宣伝がうまい呉服屋としてよく知られていた。ところが吉野屋呉服店は道路拡張工事にともなう家屋の後退を余儀なくされた。そのため店主はこの機に念願の大新築を思い立ち、店名を吉野屋百貨店と改称して営業を開始したのである。
 吉野屋百貨店は、敷地一二〇坪、地下一階・地上三階建て、店舗は一階が雑貨・文房具をはじめ食料品・洋傘・雨具・下駄・煙草類、二階はすべて呉服類、三階は貴金属・時計・眼鏡・蓄音機・家具・漆器・陶器類であった。地下には和洋食・寿司などの食堂があった。店員は五〇余名であったが、各階の移動には階段のほかにエレベーターが備え付けられた。当時エレベーターは珍しいものであったため、このエレベーターは評判を呼んだようである(『福井県』31・12、『福井新聞』36・12・10)。吉野屋は、だるま屋の弟分として福井市民に受け入れられたが、開設された場所がよくなかったためか、数年を経ずして失敗してしまった(『福井評論』37・2)。



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