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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    四 百貨店と中小商業者の動向
      だるま屋百貨店と中小小売商
 福井市においてだるま屋が開店した一九二八年(昭和三)のころには、すでに日本の各地において百貨店と中小小売商との間で軋轢が発生していた。福井市でも、だるま屋が行った開業一周年を記念する二九年七月の売出しでは、市内の小売商は、この時期の一般の不景気も加わり、だるま屋の開店によって影響をうけ「経営難」に陥っているとしていた。とくに流行の変遷の激しい洋品店は大きな影響をうけたようである。このため市内の小売商はだるま屋の一周年記念の売出しに対抗して福井商工会議所で特売会を開くなど、「だるま屋対抗策」を考えざるをえなくなっていた(『大阪朝日新聞』29・7・13)。
 三一年に大阪朝日新聞経済部の主催によって開催された「福井中小商工業者座談会」では、まっさきに百貨店のことが取り上げられた。この席上、だるま屋の影響について、ある呉服商は「平常の売上は変りないのですが、百貨店で売出しとか廉売とかをやられると随分ひゞきます」と述べていた。また文具商は「最初は大分心配もし、半年あまりは事実打撃もあつたのですが、今日では又元通りになつて来たやうに思ひます」と述べていた(大阪朝日新聞経済部編『農工商の第一線に立つ中小業者の叫び』)。おそらくだるま屋の開店は、当初は地元の小売商に動揺をあたえ、また売出しの時には少なからず影響をおよぼしたのであろう。
 しかし、他の都市と比べて、だるま屋の中小小売商への影響は大きくはなかったものと考えられる。だるま屋店主・坪川信一は、中小小売商対策を意識して、だるま屋を開店する時には、地元の中小小売商を収容する貸店舗マーケット(だるま屋マーケット)を併設していた。このマーケットの営業方針は、正札定価を明記し掛け値を禁じ現金販売とすること、商品の定価は市価以下とすることなどで、そのため公設市場に準ずるような施設として一般に好評を博した。利用者は相当に多かったようである(福井県下連合教育研究会『福井県の商業科資料』)。また、マーケットには大体二〇前後の店舗が常時入っていたようであるが、二〇店舗といえば地元の主要な小売商を収容することになり、だるま屋が催し物などを行って客を集めるとその余波がマーケットにおよび、地元の小売商も潤うようになっていたのである(『だるま屋百貨店主坪川信一の偉業』)。
 このため地元の小売商は、だるま屋を敵対するものとは考えず、反百貨店運動を展開することもなかった。むしろだるま屋の開明的な営業方針を見習い、だるま屋と共存共栄をはかることを考えるにいたったのである。実際、三五年に「異色ある店を探る」としてだるま屋を取り上げた雑誌『商店界』は、園田なる人物が福井商工会議所の招聘で小売店経営講演会に出かけた時の印象をつぎのように述べている。すなわち、当時一般的には各都市で百貨店と中小小売商問題が取り沙汰される状況にあったが、福井市では「デパート横暴、デパート排撃の声」は少しも聞かれず、むしろ一般の小売商は「だるま屋デパートの主人坪川信一氏に対し、たいへん尊敬の念を持つてゐる」、ある呉服屋の主人は「だるま屋が出来てから客扱いが楽になつて売上も増した」、あるいは洋品店の主人も、だるま屋の営業振りをみることで「自分の店の経営上に色々な参考資料」がえられるとまで語っていたのである(『だるま屋百貨店主坪川信一の偉業』)。



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