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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    四 百貨店と中小商業者の動向
      福屋の出現と中小商業者の反対運動
 これまでみてきた百貨店は、いずれも地元資本による百貨店であった。ところが、一九三六年(昭和一一)には県外の百貨店資本が福井市に進出し、大きな問題となった。
 石川県の百貨店資本宮市大丸は、その初期から福井市をはじめ石川県大聖寺、富山県高岡、新湊、福光、井波、氷見など、北陸三県の主要地域に出張販売を展開していた。宮市大丸は「北陸の宮市大丸として、広く深く根をおろす」ことを早くから考えていた。そのため宮市大丸は、まず富山市に出張員詰所を設け、その成績が金沢についでよいものであることを確認すると、三一年末には百貨店として富山市に進出することを決定した。富山市では出店のための用地買収を終え、富山支店開設事務所の看板も掲げた。しかし、宮市大丸の出店を知った地元の小売商たちは結束を固め、宮市大丸富山進出阻止の期成同盟会を結成し、商工会議所を中心に県・市に対して出店反対の陳情を行う一方、二〇〇余名による進出反対のデモ行進を敢行し、大変な騒ぎとなった。しかしながら、このような地元の反対運動にもかかわらず、宮市大丸はともかく出店を成しとげ、出店後の富山店の営業成績は金沢店以上のものとなった(『大和五十年のあゆみ』)。
 富山に続いて北陸での店舗展開として宮市大丸が考えたのは福井市であった。福井市にはすでにだるま屋百貨店があり、その異色ある経営ぶりは全国にも珍しいものとして注目を浴びていた。しかし、宮市大丸は、だるま屋の建物は木造の二階建てであり、その設備も不十分であると考え、そのため出店の可能性は大いにあると判断した。福井市に鉄筋の近代的建築を建て、商品も充実すれば、いっきょに福井市民の関心を引き付け、だるま屋に対抗することが可能であると考えたのである。このような計画に対して、三国町の県会議員濃畑三郎、福井銀行重役森田三郎右衛門らは、かねてから近代的な百貨店の福井への誘致に関心をもっていた。そのため宮市大丸に対して福井進出に水をむけてきた。宮市大丸は、福井銀行所有の駅前目抜き通りの土地を百貨店建設用地として提供してもらい、三六年五月には百貨店設立の具体的な見通しが得られるにいたった。
 宮市大丸はすでに富山進出にあたって小売商の反対運動をうけるという苦い経験を有していた。それだけに福井市への進出にあっては、県外資本であるということを表面には出さず、「福屋」という名称で進出することにした。百貨店の建築申請も濃畑三郎の名義で行った。
 しかしながら、このような偽装工作も地元の小売商には不自然なものに思えた。三六年七月ころには「福屋」の資本主は実は宮市大丸であるとするうわさが広まった。そこで地元の小売商は、県外資本の百貨店が進出するならば、小売商にとってはあらたな百貨店の出現となり「死活問題」だとして反対運動がおきた。
 福井市内の松本地方方面の小売業者は百貨店の出現に対して「生命線」を確保することを主張し、七月一二日夜、松本地方の西蓮寺でそれぞれ反対市民大会を開催した。福井商工会議所では小売商組合の代表三〇余名が集まり対策協議を開催し、一四日までに委員五名を選び県当局に窮状を訴え新百貨店の出現を阻止すること、また商工会議所においても近く役員会を開き反対陳情を行うことを決定した(『大阪朝日新聞』36・7・14)。一五日には市内七二の小売商組合が新百貨店の出現は小売商にとって「死活問題」であるとして、その代表者五名が県警察部長に面会して反対の陳情を行った。しかし、結局、同月一八日には警察部長より申請者濃畑三郎に対して「福屋」開設の許可があたえられた(『大阪朝日新聞』36・7・16、19)。
写真19 「福屋」開店の広告

写真19 「福屋」開店の広告

 この問題に関して警察部長は以下のように述べている。すなわち、県としては百貨店を規制しうる規則はなく、もし適用可能であるとするならば一九〇二年(明治三五)五月公布の「勧工場取締規則」と「市街地建築物法」があるのみである。結局百貨店進出を阻止しうる根拠は何もないであろう。また警察部長はつぎのようにも述べていた。「拠る法令もなく困ってゐる」、しかし「消費者階級にとつては新デパートの出現を賛成してゐるから」、賛否両方の意見を詳細に検討して早急に結論を得たい、と(『大阪朝日新聞』36・7・16)。この警察部長の発言からは、結局百貨店を規制する規則がなく、また消費者は百貨店の出現を望んでいるので、県としては福屋に対して百貨店建設の許可を下すことになったことがうかがえよう。
 小売商側は、以後しばらくのあいだ百貨店法の制定運動や、宮市大丸も加わる全国百貨店商業組合が定めた出店自制に宮市大丸が違反していることを批判して反対運動を展開した。またこの年の県会においては高嶋孝議員が百貨店問題を取り上げ、中小商工業者の意向を無視して県当局が福屋を許可したこと自体「甚ダ以テ怪シカラヌ問題ダ」として、県当局を批判する場面もみられた(『昭和十一年通常福井県会会議録』)。しかしすでに許可の下りたあとであり、福屋許可の事実が変えられるようなことはなかった。このため小売商たちは、専門店の強化や、商店街・商業組合による組織化の道を歩むことになった。同年九月に「福井小売商聯盟」が結成され(『福井県』36・9)、翌年四月には呉服町・京町の一流店による商和会、福井専門店会が結成された(『福井商工会議所百年史』)。



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