目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    一 「人絹王国」の誕生
      生産統制・輸出統制の強化
 一九三六年(昭和一一)二月五日の人工連第七回理事会において岐阜組合が統制の実績に効果が表われないことを批判し、抜本的な生産統制強化を求める「生産統制促進要請決議理由書」を提出した。福井県の各組合もこのころは実効ある統制を求める立場にかわっていた。こうした動きの結果、六月には商工省人造絹織物業改善委員会が組織され、一〇月より輸出向け全品種を八品種に分けて生産割当が行われることとなった(『日本絹人絹織物史』)。
 一方、輸出統制については、四月に日本絹人絹糸布輸出組合連合会、人絹連合会、人工連、日本輸出織物染色工業組合連合会の人絹関係四団体からなる人絹統制協議会が商工省主導下につくられ、輸出価格の四%程度の輸出統制手数料徴収による全面的輸出統制が企図された(神戸絹人絹輸出組合『本邦絹人絹糸布現勢』)。この背景には日豪紛争がある。オーストラリア政府は、日本の綿布・人絹織物の輸入急増に対し、三六年三月、関税引上げと輸入制限措置をとった。しかもこれは日豪間の通商条約締結交渉が行われていた最中であったので、日本側も態度を硬化させ、六月には「通商擁護法」が発動され、オーストラリアの羊毛(原毛)、小麦の輸入禁止が行われ、オーストラリアは七月、これに対抗する輸入制限措置により事実上綿布、人絹織物はじめ雑貨類の輸入を禁止した(深沢甲子男『羊毛工業論』)。この事件を機に日本絹人絹糸布輸出組合連合会は八月一日より人絹織物の輸出統制を全仕向国を対象とすることを決定した(『東洋経済新報』36・7・11)。
 また、人絹連合会も五月より操短に加え増錘制限を実施し、これまで忌避してきた重要産業統制法第二条適用を申請した(六月一三日)。頑強に最後まで残ったアウトサイダー二社の問題は、商工省裁定が二社の言い分を認めるかたちで解決し、人絹連合会に加盟させた(『東洋経済新報』36・9・12)。
 このように三六年には人絹連合会・人工連・輸出組合連合会の三者がそれぞれ操短・生産統制・輸出統制の枠組みを抜本的に強化したのである。
 しかし、その効果は思わしくなかった。人工連の生産統制は、表21のように推移したが、この時期に在荷高が増大していることがわかる。これは生産割当数量が、申告された数値をそのまま集計したものだったために実需を上回っており、しかも超過生産数量の一部を実績として認め、次期の割当の基礎としたために実績(割当)確保のための増産をもたらしたからである。また、品種別に割当を行ったことも、機業家の品種転換を抑止し、需要の減った品種を割当確保のために製織し続けることになり、市場は生産過剰に加えて、いわば「適品薄」の現象を呈していたといわれる(『東洋経済新報』37・6・19)。

表21 人工連の生産割当数量・実産高・在荷高(1936年10月〜38年1月)

表21 人工連の生産割当数量・実産高・在荷高(1936年10月〜38年1月)



目次へ  前ページへ  次ページへ