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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    一 「人絹王国」の誕生
      生産統制・輸出統制の開始
 一九三二年(昭和七)から三四年上半期にかけての人絹景気のもとで、人絹織物業者は、生産過剰の危惧をほとんど抱いていなかった。英領インドの関税引上げという事態に直面して東洋経済新報社が主催した座談会「関税重圧と人絹事業、其の対策と発展を語る」において山田仙之助は「困ったことには最近商工省あたりで考へて居られる統制の問題です。これは下手をすれば、却つて日本の人絹事業の発展を阻害するもので、この際決して軽々しく極めてはならぬことです。……安いといふのが日本人絹製品の生命であるのであります。それに対して数量を制限するとか、又は輸出税を課するとかいふやうな事は、この生命とする強味を失はしめるものであつて、全く執るべからざる方法であります。現状維持の自由競争にこそ、真当の意味の発達があると私は考へて居る訳です」と語っている(『東洋経済新報』33・7・8)。また、商社側でも三井物産福井出張所高田義雄は「人絹織物の増産振りを示しても決して生産過剰に陥る心配はない、何しろ人絹織は日本独特の安い値段を持つてゐるから海外市場の需要は一層激増することにならう」と太鼓判を押していた(『福井新聞』34・8・11)。人絹織物業界は黄金時代を謳歌し、統制を忌避する傾向がきわめて強かったのである。
 三三年の日印会商のさいは人絹代表として西野藤助を派遣したにとどまり、関税引上げの打撃も少ないとみられていたために綿織物業界のような輸出統制・生産統制にはいたらなかった。また、人絹糸を生産する人絹会社が組織していた人絹連合会は、三三年六月に「本邦人絹製品ノ強制的輸出統制ヲ非トスル意見書」を商工大臣あてに提出するなど統制忌避の傾向が強かった(外務省外交史料館文書)。翌年の日蘭会商のさいには輸出組合は設立されたが本格的な輸出統制は開始されなかった。しかし三四年下半期に人絹織物価格、人絹糸価格双方が大幅に下落するにおよんで輸出業者が統制の必要を主張しはじめた。三五年五月七日に大阪綿布人絹織物輸出組合と神戸絹人絹輸出組合は人絹連合会との合同懇談会において人絹会社の操短を要求し、操短ができない場合には人絹連合会のいやがる輸出統制に着手することを宣言した(『福井新聞』35・5・9)。昭和恐慌期に操短を行い、この時期には解除していた人絹連合会は内部の不統一で再度の操短に踏み切れなかった。日本絹人絹糸布輸出組合連合会(大阪・神戸・横浜の人絹輸出組合)が五月一四日最低販売価格の設定を含む輸出統制を行うことを決議すると、翌日、人絹連合会は二割操短を決議した(『福井新聞』35・5・5、17)。
 ところが、いざ輸出統制の具体化の段階になると神戸組合が反対論を主張した。その理由は、神戸の輸出業者には輸出組合非加入者(アウトサイダー)が多いこと、価格統制により最低販売価格を引き上げても諸外国の関税引上げ、輸入制限は緩和できない、というものであった(『福井新聞』35・6・18)。神戸組合からの申入れにより福井県織物同業組合も輸出統制反対を主張したが(『福井新聞』35・6・28)、日本絹人絹糸布輸出組合連合会では八月一日から輸出統制を実施することを決定した。その内容は、蘭領インド、中南米(アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイをのぞく)に輸出するものにつき統制手数料または特別統制手数料を徴収し、中南米については相手国の対日輸出希望品目の輸入補償金に充当する、蘭領インドについては輸入制限令対策として輸出数量統制(自主規制)を行うというものだった。
 一方、人工連は、公約どおり生産統制の準備を進めていた。しかし、福井の各人絹織物工業組合は、生産統制に否定的で、生産割当の基礎となる生産高の掌握という点でも生産月報の報告を拒否し人工連を困惑させていた(『福井新聞』35・3・20)。三五年段階における統制は、統制証紙の配布による生産者の把握にとどまった。
 福井の機業家で統制実施の声をあげたのは、またもや同盟会であった。同盟会は、人絹連合会の操短再開が注目された時、操短よりも人工連による生産調節の実施を主張したのである(『福井新聞』35・4・17)。輸出組合による輸出統制の実施が八月一日に定められると、人工連も品種別生産統制を検討し、七月一日から八品種に分けて統制証紙を貼付することが決定された。しかし、福井県の七月分割当は二二二万二一四〇反であり、これは従来の生産実績を大きく上回るものであった(『福井新聞』35・6・14)。



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