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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    一 農業恐慌の波紋
      山村や漁村の窮状
 繭価とそれに続く米価の暴落に疲弊困憊する農村と同様に、あるいはそれ以上に山村や漁村の状況はひどかった。
 山村の場合は、主産物であった繭に続く木炭の価格暴落が、山村民のくらしをいっそう圧迫した。「木炭王国」の異名をもつ大野郡では、採算の合わない製炭業に見切りをつけた炭焼人夫の下山が陸続し、養蚕と製炭を柱とする山村の生業は八方塞がりの状況となった(『大阪朝日新聞』30・10・19)。一九三〇年(昭和五)一一月の大野郡農会からの報告によれば、大野町では二八年に一俵五貫入り一円であった穴馬産の炭が六〇銭前後にまで下落し、町家では薪に代えて割安な木炭を燃料に用いるという、まさに「珍現象」がみられたという(『福井県農会報』30・11)。
 この木炭の価格から材料代や包装用の俵・縄代、運搬費などを差し引くと、製炭業者の手元に残る焼賃はきわめて微々たるものであった。三二年では、一俵につきわずか一四銭から一五銭の収益で、汗水流して働いても一日平均七〇銭ほどにしかならなかった(『大阪朝日新聞』32・8・12)。くわえて、三四年の大雪では、大野郡に七〇〇あまりあった炭焼き竃の三分の二以上が倒壊するという、きわめて甚大な被害をうけた(『大阪朝日新聞』34・4・18)。だが、軍需工場における需要が増大したことから、木炭の価格は三三年末に回復しはじめ、三四年は雪害をこうむったにもかかわらず産量がふえた。「木炭景気」が叫ばれ、養蚕を見限って炭焼きに転向する者も現われたが、価格は二〇年代後半の水準をこえるものではなかった(『大阪朝日新聞』34・8・25)。
 一方、漁村は漁獲の減退と魚価の低落に苦しめられた。漁業の不振は三二年にもっとも深刻となり、沿岸小漁業と機船底曳網や底刺網などの大規模網漁業との対立が激しくなった。とくに漁港や船溜、船揚場などの施設に乏しかった嶺北地方の沿岸部は、大型発動機船の進出に脅かされ、漁場荒廃による水産資源の枯渇に悩まされていたのである。三二年七月に開かれた沿岸漁業研究会では、大規模網漁業の制限をめぐって大飯・遠敷両郡と丹生郡との意見が分かれ、機船底曳網や底刺網漁業の取締りを訴える丹生郡沿岸の国見、四ケ浦、城崎、越廼・下岬組合の四か村の漁民一三〇余名が県庁に押しかける一幕もみられた(『大阪朝日新聞』32・7・15)。そのとき、知事に提出された請願書には、「今日は恰も原始時代そのものゝ如くに物々交換を行ひ、米を求むるに家道具、又は漁具を以てするが如く、すべてその日暮しをなすもの多数にして、昨年十月以来、漁夫一人の収入は一ケ月僅に三円内外にすぎざる」との窮状が訴えられていた。同年一二月には、越廼村が漁獲激減による飯米の欠乏を理由に政府所有米の払下げを申請し、いったんは却下されたが、翌年三月になって丹生郡四か村への白米払下げが特例として認められた(『大阪朝日新聞』32・12・16、33・3・30)。



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