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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    一 農業恐慌の波紋
      欠席・欠食児童
 こうした山村と漁村の困窮ぶりは、この時期の小学校における欠食や欠席児童の数にも現われた。一九三二年(昭和七)一一月、政府の交付金をもとに、欠食や栄養不良児に対する学校給食が開始されたが、図10にみるとおり、その対象者は丹生郡、坂井郡、大野郡の順に多かった。
図10 郡市別給食児童数(1932年11、12月)

図10 郡市別給食児童数(1932年11、12月)

 大野郡では、一〇月中の欠食児童の数が、山村の北谷校の三七名を筆頭に二〇校で二三二名に達した(『大阪朝日新聞』32・10・29)。また丹生郡では、児童や生徒による学用品購入費を稼ぐための活動が行われた。たとえば、越廼校の児童が海浜で拾った石を福井市のだるま屋百貨店で盆石として売り出したり、四ケ浦実業補習学校の生徒が海藻を貼った絵はがきの販売を試みている(『大阪朝日新聞』32・8・12、9・9)。飯米の欠乏に加えて、日用品の購入も思うにまかせなかったのである。三二年には「犬養景気」と呼ばれたインフレ政策による物価騰貴が続き、事態はいっそう深刻になっていたのである。
 また上級の中等学校においても、すでに三〇年から生徒の休退学者の増加がめだちはじめ、入学希望も減少する傾向にあった。とくに三二年度の生徒募集は、都市部の福井中学、福井商業、福井高女、鯖江高女、敦賀商業の五校をのぞき、郡部を主とする残り九校が定員割れの状態となった。なかでも大野中学、大野高女の募集は惨憺たるもので、二月二八日現在の志願者がともに一名にすぎなかった(『大阪朝日新聞』31・2・28)。
 当時、中等学校に子供をやる父母の学資負担は、授業料に校友会費、旅行積立金、卒業寄付金などを加えて、一か月平均一〇円近くになったという(『大阪朝日新聞』31・12・17)。すでにこの時期には、「中等教育を子弟にうけさせるのを、一町歩田を所有する家庭の特権の如く考へ」ているといわれたほど、中小地主の間でも息子を中学、娘を女学校に入れることが当たり前のようになっていた(『福井県農会報』31・2)。農業恐慌の襲来は、こうした農家の学資負担を困難にさせ、子弟を一家の働き手に戻させたのである。同時に、学校教育に対しても勤労主義にもとづく実業教育への転換、しかも地域の生業に即した内容への変革を求めさせたのである。



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