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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    五 恐慌期の労働・農民運動
      恐慌と労働組合
 一九三〇年(昭和五)四月、温情主義で知られた鐘紡が四割減給を発表し、同社の各工場で争議が起こったことは、全国の労働運動に大きな衝撃をあたえた。福井県でもこの時期、今立郡北中山村の南越織物、坂井郡丸岡町の丸和絹織、大野郡勝山町の親和織布、遠敷郡の若狭製紙などが休業または工場閉鎖に追い込まれた。また、県社会課の三〇年五月の調査によれば、恐慌による解雇労働者は六五七人であり、二六の事業所が操短、二〇の事業所が閉鎖、一五の事業所が休業した(『大阪朝日新聞』30・4・9、5・17)。
 こうした状況のなか、三〇年四月一五日の第六回大会で、福井県労働同志会はみずからを無産運動の「先頭部隊」と位置づけ、福井リーム会社争議への積極的応援や「支配階級の横暴、搾取に対して反抗と正義を以て示威」するためメーデーの開催を決議していた。県下最大の労働組合(三一年で組合員数三五〇〇人)が、従来の労資協調路線からの転換をはかろうとしていたのであり、また実際、後述するように恐慌期の福井県の労働争議を主導する。
 なお、労働同志会のほかに三〇年末で県下の労働組合としては、元労農党を支持していた福井県合同労働組合が武生町にあり(二八年三月創立)、敦賀には三〇年七月創立の敦賀労働組合(組合員二七五人)のほか敦賀建築労働組合(同一二〇人)、敦賀映画従業員組合、敦賀木材労働組合、敦賀自由労働組合があった。そして、翌三一年には小浜に朝鮮人や遠敷水平社の青年部員を中心とした若狭自由労働組合(同一八〇人)が創立され、三二年から三三年にかけて、組合員の多くが従事していた内務省北川改修工事における解雇や賃下げをめぐって、同盟罷業や事務所襲撃などが行われ、嶺南地方においてもっとも熾烈な労働争議を展開していた(資11 一―三四九、資12上 九、『一九三二年版日本労働年鑑』、『特高月報』31・11、『大阪朝日新聞』33・3・7)。



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