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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    五 恐慌期の労働・農民運動
      失業者の増加
 昭和恐慌による全国の失業者数は、一九二九年(昭和四)九月に約二七万人であったのが、翌三〇年四月には三七万人に、そして三一年五月には四〇万人を突破した(内務省社会局『失業状況推定月報』)。その後もこの増加傾向は続き、三二年七月には五一万人となり、この約三年間に失業者数はほぼ倍増することになった。また、この数字には帰農者は含まれておらず、内務省の調査では三一年全職工解雇者のうち四三%が帰農者とされており、こうした農村の潜在失業者数を考慮すると実質的失業者数は月報の数字を大幅に上回っていたと思われる。
 図5は、二九年九月から三六年三月までの福井県の月別失業者数と失業率の推移である。三一年五月まで一〇〇〇人台であった失業者数は、翌月には二六三五人にふえ、さらに翌七月にはいっきょに六七八一人にまで増加している。この失業者数の急増は、失業救済事業との関連で失業者の登録を積極的に行わせたことと、従来は一か月のうち二〇日以上失業していなければ失業者とみなさなかったのを一〇日以上に変更したことも大きな原因ではあるが、基本的にはこの時期より福井県においても失業問題がより深刻になってきたことを示している。また、給料生活者の失業数がほぼ一定なのに対して、「日傭労働者」と「其ノ他ノ労働者」の失業者が急増し、三一年なかば以降福井県の失業率は全国とほぼ同じ傾向を示す(『大阪朝日新聞』31・7・15)。
図5 福井県の失業率と失業者数(1929年9月〜36年3月)

図5 福井県の失業率と失業者数(1929年9月〜36年3月)

 つぎに、福井職業紹介所の二六年から三九年までの求人率を図6によりみると、女子の求人率は昭和恐慌期も一五〇をこえた数値を示し、一貫して求人数が求職者数を上回っている。一方、男子の求人率は二八年に一〇〇を割り、三〇年から三二年にかけて八〇台の最低部となっていた。
 このほか、多くの労働者を苦しめたものに、消費者物価指数を大きく上回る賃金の下落があった。たとえば、敦賀町の沖仲仕の日給は二九年二円六〇銭が三二年には一円三〇銭と半減し、日雇人夫にいたっては、二円三〇銭が半額以下の一円にまで下落していた(資17 第491表)。失業率の増加や求人率の低下とともにこうした賃金の下落が、福井県においても労働者をして昭和恐慌以前と比べてより深刻な争議を起こさせ、またいくつかの労働組合を結成させることになり、労働運動は新しい局面を迎えることになる。
図6 福井職業紹介所の求人率(1926〜39年)

図6 福井職業紹介所の求人率(1926〜39年)




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