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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    四 地方財政の推移と都市計画
      税収の落込み
 こうした財政構造の脆弱性をかかえたまま、地方財政は一九三〇年(昭和五)以降、昭和恐慌の追討ちをうけることになる。まず、その影響を税収面でみてみよう。表10にみるように、県税収入では、二七年度の三三七万円が三〇年度には三〇三万円、さらに三二年度には前年の三一年に地方税制の改正があったこともあり、二七一万円となった。この五年間で六六万円、約二〇%の落込みをみせており、内訳をみると、地租割では約二四%、営業税付加税と所得税付加税をあわせた税額にいたっては五〇%以上の減収であった。

表10 地方税収額の推移(1927、30、32年度)

表10 地方税収額の推移(1927、30、32年度)
 三一年の税制改正で地租の課税標準が、土地負担適正化のために従来の法定地価から賃貸価格に改正された。この地租の改正は、東京で四倍近くに、大阪で二倍以上に増加したように大都市圏をもつ府県では税収の伸びをもたらしたが、福井県のような農業県ではかなりの減収となった。福井県の地租割は二七%減であり、その減収率はもっとも大きかった沖縄県(四六%減)から数えて七番目であった(『昭和財政史』14)。
 他方、「細民課税」の側面を残していた雑種税は、福井県でも二七年度と三二年度を比べても、ともにほぼ六六万円であり、県税営業税(主として国税営業収益税の免税点以下の小営業者に課税された)も約二〇%の減収にとどまった。また、二六年の改正で市町村税に移管された戸数割に代わり、県の主要財源の一つとなった家屋税は、二七年度の七五万円が、三二年度で六五万円であり、その減収率約一三%は、米価はもちろんのこと職工賃金の減少率よりもかなり小さくなっていた。
 すなわち、恐慌と三一年の税制改革により、各地方団体間の財源の不均衡とその穴埋めのための他税の増徴による負担の不公平はいっそう大きくなり、福井県のように地租割や所得税・営業税付加税の大幅な税収減をきたした県では、県民に広く課税された家屋税や雑種税の落込みを極力抑えることにより、歳入の減少率のくいとめをはかっていたのである。
 こうした傾向は町村税においてもみられ、二七年度の三三九万円が、三二年度には二六三万円にまで落ち込み、その減収率は県税よりも大きく約二二%に達していた。なかでも、二六年の改正で市町村税に移管されていた戸数割は、表10にみられるように課税基準がより所得税に近いものになっていたため約二六%の大幅減収となった。一方、県税家屋税付加税は約一七%減、県税雑種税付加税は約一二%減であり、また地租免税点以下の土地にかけられた県税特別地税の付加税では六万六〇〇〇円が七万三〇〇〇円と約一一%の増収となっており、町村税においても細民課税的な税源あさりともいうべき手法で、減収のくいとめをはかっていた。
 そのなかで福井市の税収も、国税所得税付加税と同営業税付加税を加えた額は五五%の大幅減となっていたのに対して、税収の五割近くを占める県税家屋税付加税は微増し、県税営業税付加税に同雑種税付加税を加えた額は一一%増であった。ただ、市税総額の減収率は約七%にとどまっており、県下の各地方団体間においてもまた、前述した道府県間と同様に、財源の不均衡がおこっていたといえよう(資17 第34表)。



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