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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    四 地方財政の推移と都市計画
      地方財政の膨張
 第一次世界大戦は、日本経済にかつてなかった「繁栄」をもたらした。国家財政もこれにともない急膨張したが、地方財政の増加はそれ以上のペースであった。一九一二年(大正元)を一〇〇とすれば、一九年にはともに一九七であったのが、二五年には国家財政の二五七に対して、地方財政は四二五にまで膨張していた。こうした地方財政の急膨張は、教育関係費や土木費など補助金をともなう国政委任事務の増加および電気・ガス・水道などの地方独自の事業に起因していた(吉岡健次『日本地方財政史』)。
 福井県においても、一二年を一〇〇としたこの期間の財政の伸びは、県財政で一九年一六〇、二五年三七六、市財政で一九年一八二、二五年三七七、さらに町村財政では一九年二一五、二五年三六五であった。ほぼ全国傾向と同じであるが、一二年から一九年の町村財政をのぞいて全国平均を下回っており、とくに二〇年代なかば以降の伸びが小さかった。大戦後の米価の停滞(米単作地帯)や唯一の基幹産業である絹織物業が慢性的不況に陥っていたことが、県および市町村の財政力にも影響をあたえていた。
 一方、政府はこうした地方財政の膨張に対して、一八年四月に「市町村義務教育費国庫負担法」を施行し、二六年には地方税制の改正により、とりわけ急膨張した市町村財政に対処するため府県税戸数割を市町村税に移管し、また府県財政を補填するため家屋税の一般的設置を行った。なお、市町村義務教育費国庫負担金は、二六年に一〇〇〇万円から四〇〇〇万円に、さらに、二七年には七五〇〇万円へと増額され、当初の教育補助金という性格から財政補給金の役割を担うようになっていた。福井県の市町村国庫下渡金も、一九年の一二万円が二七年には九三万円に増加し、市町村歳入総額の一一・三%を占めるまでになっていた。
 しかし、こうした税制改革や国庫下渡金の増額によっても地方財政難は解決できず、公債費は二五年の二億四一五四万円が、三〇年(昭和五)には四億七八五〇万円にまで増加した。福井県の県・市町村財政も、税収入は二五年の七〇三万円が三〇年では六四八万円と一割近い落込みをみせる一方、公債は六〇万円が二一七万円へと三倍強に膨らんでいた(『昭和財政史』14、『本邦主要経済統計』、資17 第29、34、36、39、49、52表)。



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