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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    三 選挙粛正運動と政党
      第一次選挙粛正運動
 福井県では、一九三五年(昭和一〇)六月一日、三〇名の選挙粛正委員会委員が近藤駿介知事により選任され、また知事が委員長となった。委員の構成をみると、連隊区司令官、在郷軍人会の代表や神職会の代表とともに西別院輪番が委員となっている。「真宗王国」と呼ばれた嶺北地方県民の信仰心への配慮であり、また、教育界からは三二年の上海事変前後から嶺南一帯で精力的に時局講演会の行脚を行っていた遠敷郡小浜尋常高等小学校長松見半十郎が、ただ一人選ばれていた(資12上 一〇四、『福井新聞』32・3・20)。浜口内閣時の教化総動員や公私経済緊縮運動と比べ、粛正運動を盛り上げるための人選の苦心はうかがえるものの、他府県と比べても官吏、市町村長の比率が高く、結局はより行政主体の運動になることが予想された。
 六月一二日に第一回の委員会が開かれ、運動方針が知事に答申された。答申の一つであった市町村選挙粛正期成委員会の設置は、一九日に総務部長通牒としてだされた(資12上 一〇五)。こうして、ラジオ放送・弁論大会・講演会・映画会、作文・標語・ポスターの募集などの運動は社会課が担当し、講演会は県下一八七か所で開かれ、知事・四部長・各課長などの県職員が総動員された。他方、選挙の取締りを行う警察は、刑事課が選挙ブローカーなど約三六〇名のブラックリストを作成し、事前運動を含め厳重な監視を続けた。また、神職会、婦人会などの諸団体も総動員され、とくに、学校の児童を通じて親への棄権防止が求められたり、作文の募集がなされるなど、学校現場が直接的に官製運動に取り込まれることになった点も見逃せない(『大阪朝日新聞』35・6・12、13、7・4、31、8・6)。

表6 市町村選挙粛正期成委員会委員の構成(1935年)

表6 市町村選挙粛正期成委員会委員の構成(1935年)
 こうしたなかで、とくに市町村選挙粛正期成委員会が「部落懇談会」の開催を前提に設置されたことは、この運動の大きな特色であった。市町村委員会の設置に熱心でない坂井郡の一村長からは始末書をとるなどして、未設置市町村にはきびしい督促を行った結果、七月中旬には一七五市町村に同委員会が設置された。表6にみるとおり、市町村委員会は県下のほぼすべての区長を網羅しており、この運動が、「部落懇談会」の開催およびそこでの申合せなどに力点をおいていたことがうかがえる。また、こうした動きに対して県会議員選挙を前にした八月二七日には、政友会と民政党の両県支部が選挙の浄化を期した共同声明を出していた(杉山区有文書、『大阪朝日新聞』35・6・30、7・18、8・28)。



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