目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    三 選挙粛正運動と政党
      一九三五年の県会議員選挙
 一九三五年(昭和一〇)九月一四日、県会議員選挙立候補届出締切の前日に、嶺北地方一市七郡の立候補者三八名および選挙事務長は県庁に集合し、中野並助検事正列席のもと、選挙粛正宣誓式を行った。式では近藤知事が「立憲政治の確立は焦眉の大問題」と選挙粛正の意義を述べた後、立候補者は懇談会に移り、(1)投票の買収や不正な方法による勧誘を絶対に行わないこと、(2)選挙ブローカーを絶対に排除すること、(3)選挙運動関係者を厳選すること、(4)選挙費用をできるだけ節減すること、(5)選挙運動は取締官庁からうける指示を厳守すること、の五つの事項を申し合わせた。
 その後、この申合せを厳守する宣誓書を作成し、乗合自動車五台に分乗し、藤島神社に参拝し宣誓書を神前に捧げた。翌一五日には嶺南四郡の立候補者が敦賀警察署楼上に集合し同様の儀式を行ったが、これ以後、立候補者によるこのような儀式は恒例化する(『大阪朝日新聞』35・9・15)。
 そして、一五日までに二七年の四七名、三一年の四八名より若干多い四九名の立候補があり、無投票は大飯郡のみであった。こうした多数の立候補者があったことは、前々回の二七年に労農党から二名が立候補して以来、八年ぶりに社会大衆党(敦賀郡山口小太郎落選)と福井県労働同志会(福井市斎木重一落選)の無産政党(労働団体)から二名の立候補があったこと、および選挙法の改正により、選挙後一か年の間に当選者が死去または失格した場合、従来のような補欠選挙ではなく、次点者の繰上げ当選となったことなどがその理由であった。当然のことながら、選挙粛正とはいえ激しい選挙戦となった(『大阪朝日新聞』35・9・8)。
 九月二二日の投票の結果は、与党の民政党が一一名、政友会が一五名、中立が四名であり、また全国的にも与党の民政党が破れ、普選以来慣行的になっていた与党の勝利という構図がはじめて破られた。しかし、政友会・民政党という二大政党の得票率はほぼ九割あり、従来と比べ大きな変化はなかった(表7)。無産派の斎木は福井市で三位当選者とわずか一九票差で落選という健闘をみせたが、山口とあわせた得票総数は全体のわずか二・一%であった。また、棄権率はきびしい選挙取締りのため増加することが危惧されていたが、一七・四%で前回よりは高かったものの、そう大きくはふえなかった。

表7 県会議員選挙政党別得票数(1927、31、35年)

表7 県会議員選挙政党別得票数(1927、31、35年)
 このほか、選挙粛正運動下の県議選結果の大きな特色としては、事前運動を含め選挙取締りがよりきびしくなったためか、前議員が三〇名中二二名を占めるという現職有利の構図ができたことがあげられる。当選議員の平均年齢は五〇歳をこえ、新人議員は立候補者一八名中わずか五名の当選者をみたのみであった(『大阪朝日新聞』35・9・26)。
 さらにもう一つの特色は、選挙違反の数がかえって増加したことである。違反件数は前回の県議選の六倍強、起訴件数は大阪・京都につぐと新聞は報じており、その検挙者のなかには立候補者自身も数名含まれていた(『大阪朝日新聞』35・12・10)。
 表8は、投票日から二か月後の一一月二〇日現在の選挙違反の内容である。圧倒的に買収が多く、坂井郡のある村では村民の大半が一円から二円で買収され、検挙者続出のため秋の収穫作業に支障がでているとまで報じられていた(『大阪朝日新聞』35・10・12)。このような選挙違反の激増は、きびしい取締りの結果でもあり、三五年から三七年の県会では、つねに選挙違反取締りにおける人権蹂躙が問題とされた。
表8 県会議員選挙検挙者(1935年)

表8 県会議員選挙検挙者(1935年)
 こうした選挙粛正運動を、痛烈に批判していた人が県下にもいた。三五年一〇月の『福井県青年』(資12上 一〇八)は、
  自分でやらなければならない選挙粛正を、生白い素人の役人共の形式主義にしてや
  られ、所謂民衆生えぬきである筈の政党のヱラ方面目がどこにある。立憲政治の根本
  なんぞ薬にしたくもわかりもしない役人共の尻からのこのこへばりついて、蚊の鳴く様    な声で「選挙粛正」!さもありなん。
と述べ、「選挙粛正」を「選挙縮小」と間違えている者が多いとしている。さらに「非常時や選挙粛正のお題目をネタに随分と和製ムツソリニが現出する。国民こそいゝ面の皮で、何時も然る可くなでられてゐます」と、鋭く官製国民運動の実態をえぐり出していた。官製の「お題目」に国民(県民)が馴致される危険性が高まっていたのである。
 なお、選挙後の臨時県会は、議席の過半を獲得した政友会が選挙違反で一名が出席できず、また、池田七郎兵衛や福井甚兵衛の大物が落選したため波乱含みであった。そうしたなか、政友会を離れ公正倶楽部を結成していた恩地政右衛門ら坂井郡の三県議が民政党と連携し、議長恩地、副議長小谷重右衛門(民政党)を選出した。岡田内閣支持を大義名分とした相変わらずの役員争奪、主流派工作であった。そして、一一月に開会された通常県会は、両派の対立から流会につぐ流会を重ねた。一二月七日には知事が「和衷協力」の勧告をするとともに、県政記者団も「議長は速かに円満なる議事を進行せらるゝやう善処されたし、しからずんばその真相を県民に対し闡明せられたし」という決議文を議長に渡しており、地方においても議会は瀕死の状態であった(『大阪朝日新聞』35・10・22、12・8)。



目次へ  前ページへ  次ページへ