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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    三 選挙粛正運動と政党
      斎藤内閣から岡田内閣へ
 一九三二年(昭和七)五月末に成立した斎藤内閣は、「党弊の除去」を重要な課題の一つに掲げ、まず選挙結果を左右してきた内務官僚と政党の癒着を断つため文官分限令の改正を行い、つぎに三三年一二月開会の第六五議会で選挙法の改正法案を成立させた。選挙の浄化を求める動きは大正期からおこっており、昭和に入ると青年団運動などを指導していた田沢義鋪が第一回普選をひかえ「選挙粛正同盟会」を組織する動きもあった。このような動きの背景には、国民の政治や政党への不信感があり、斎藤内閣を総辞職に追い込むことになる「帝人事件」(裁判で全員無罪)が第六五議会で大きな問題になると、選挙浄化の声はいちだんと強まった。
 こうしたなか、福井県出身の海軍大将岡田啓介が、斎藤内閣の後をうけて三四年七月に同じく「挙国一致」内閣を組閣する。岡田首相は、ロンドン条約の妥協案を提示したように穏健な立憲政治を尊重しようとしたが、なにより政局の安定を求めたため、官僚、軍部の力がより大きくなり、政党の勢力がいっそう低下した。また、総裁鈴木喜三郎の首班内閣を求めた政友会主流は反与党化し、軍部や右翼と政友会が結託したかたちでの天皇機関説排撃・国体明徴運動にゆすぶられ、三五年八月と一〇月の二度にわたり国体明徴の声明を出さざるをえなかった。そのうえに、軍部の軍事費要求はとめどもなく膨らんでいった(須崎慎一「国体明徴運動と軍部の進出」『日本議会史録』3)。
写真3 岡田啓介

写真3 岡田啓介

 この岡田内閣の内務大臣に「新官僚」の総帥とみなされていた後藤文夫が任命されたことにより、斎藤内閣からの課題であった選挙粛正問題は、内務省によって具体化され、三五年五月に「選挙粛正委員会令」が出された。これにより、同年の秋の府県会議員選挙にむけて選挙粛正運動が、官製国民運動として田沢らを巻き込みながら展開された。



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