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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    二 「非常時」体制への移行
      政党内閣の崩壊
 浜口内閣の後をうけた第二次若槻礼次郎民政党内閣は、衆議院で与党民政党が二七二名という絶対多数の威力を示せないでいた。そうしたなか、一九三一年(昭和六)九月一八日、「満蒙の危機」を利用した関東軍の独走による満州事変が勃発した。若槻内閣は、「不拡大方針」をとりながらも関東軍の独走を処分できず、かえって朝鮮軍の独断出動をも予算を認めることにより追認するかたちとなり、閣内不一致で一二月に総辞職、代わって犬養毅政友会内閣が成立した。翌三二年二月の総選挙は、民政党の金解禁策の失敗から恐慌がより深刻になったことや、また選挙期間中、上海や満州での戦闘を新聞が連日掲載したこともあり、政友会の対外強硬論を国民が支持し、三〇一名当選という政友会の圧勝であった。
 しかし、その犬養内閣も軍部の独走をおさえることができず、総選挙のわずか三か月後、五・一五事件で彼が殺害され内閣は総辞職し、斎藤実「挙国一致」内閣の登場をみることになる。これにより、一九二〇年代後半にようやく確立されたかにみえた政党政治は、一〇年に満たずして終わりを告げた。



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