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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    二 「非常時」体制への移行
      「満蒙の危機」
 関東軍をはじめとした軍部は、満州農業恐慌の深化による南満州鉄道会社の営業収益の悪化や、反日運動の波及などに強い危機感を抱き、田中内閣のもとで失敗した「満蒙分離」(植民地化)計画をふたたび準備させ、さらに計画遂行のための「国家改造」(軍部独裁政権の樹立)のためのクーデター(三月事件)をも計画させていった(江口圭一『日本帝国主義史論』)。
 それはまた軍部をして、国内世論の支持を得るため、在郷軍人会などの外郭団体やマスコミを通じて「満蒙の危機」を広く国民に訴えさせることになる。福井県内では鯖江連隊区管内の帝国在郷軍人会鯖江支部の会報『精勇』(月刊)は、一九三一年(昭和六)一月から満州事変のおこる九月までの間、満州に関する多くの記事を載せていた。とくに八月号の「満蒙を正視せよ」は、「過去の回顧」「満蒙の重大性」「満蒙の現状と国民の態度」の三つの項を設けて軍部の考え方を平易にかつ簡潔に述べている。
 まず、「過去の回顧」では満蒙の権益は「十万の生霊、二十億の国幣」が投じられた日清・日露戦争で獲得されたものであり、またその満蒙には日露戦後二六年間にわたって約一五億円が投下され、同地方の人口は二倍に、生産は四倍に、貿易は八倍になったとする。つぎに、「我が国は人口に比し国土狭小で天恵に乏しく、平時に於ても多くの物資を海外に仰いで居る始末で、日本は満蒙を除いては殆んど自給自足と云ふ事は考へられない」と「満蒙の重大性」を述べる。そして最後に、ソ連の五か年計画の成功、中国の満鉄包囲線の敷設計画および万宝山事件の発生など「満蒙の危機」を訴え、「満蒙の野に偉績」をたてた先輩の後継者である在郷軍人諸士は、満蒙が日本の「生命線」であることを明確にみきわめ、「確乎たる信念を以て、満蒙問題に対し、郷党を教へ導くの覚悟がなければならない」と結んでいる。当時の満蒙特殊権益擁護のもっとも一般的な議論であった。
 こうした「満蒙の危機」論は、新聞にも影響をあたえはじめた。民政党系の新聞であった『福井新聞』は、浜口内閣やそれに続く若槻内閣を支持していたこともあり、軍備縮小に賛成を表明していた。しかし、三一年八月四日夕刊のトップ記事に、「全満言論機関代表者」の時局懇談会の決議である「満蒙の特殊権益擁護を期し世論の喚起に努む」を掲げたころから、同紙にも「満蒙の危機」に関する記事が多くなっていた。「満鉄沿線に馬賊襲来」(八月二六日)などの記事とともに、九月二日から事変直前の一三日まで夕刊の一面に、前述の『精勇』と同じ論旨をより詳しくした宝永小学校長川端太平の「満蒙問題を中心として」が連載された。また、社説「当面の問題」も九月三日には「軍国主義を奉じてゐる日本帝国では、今更国防思想の普及をはからねばならぬほど非軍事的になつてゐるのかどうか」と軍部の動きを批判していたのが、わずか二日後には「軍部がいきりたつてゐること必ずしも不当でなく……国防思想の普及徹底もまた故ありといはねばならぬ」と述べており、動揺・転換がはじまっていた。
 こうして軍部による国民の誘導やマスコミ操作が効果を示しはじめ、あるいはまたマスコミの軍部へのすりよりが、このころより徐々に強まっていくのである。そして、関東軍は、満州での陰謀が政府中枢にもれたため、予定より一〇日ほど早め、三一年九月一八日に柳条湖事件を引き起こした。



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