目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    二 「非常時」体制への移行
      金解禁と教化総動員
 一九二九年(昭和四)七月に成立した浜口雄幸民政党内閣は、大蔵大臣に党外から元日銀総裁の井上準之助を、外務大臣に幣原喜重郎を起用した。井上には一七年(大正六)の金輸出禁止以来、つねに課題とされ一〇人の大蔵大臣が取り組んで果たせなかった金解禁が託された。第一次世界大戦期に急成長した日本経済が戦後恐慌やとくに震災恐慌時にその脆弱性を露呈したとき、政府は経済界の動揺を恐れて救済貸出や特別融資などにより、不良企業を含めた救済をはかった。そのため、産業の合理化は進まず、企業の国際競争力が低下し、国際収支の悪化が進行するとともに、二九年には国債残高が一般会計予算の三倍強にあたる五〇億円をこえ、「経済国難」が叫ばれた(『大阪朝日新聞』29・10・27)。金解禁の実施は、二五年のイギリスの金本位制復帰を契機として再建された国際金本位制の枠組みのなかに日本を組み込むものであった。これにより円滑な海外資金調達と徹底した産業の合理化をはかり、国際競争力を回復させることが、日本経済の課題となっていたのである。
 浜口内閣は、消費を切りつめ輸入をおさえ、商品の価格を下げて輸出を伸張しなければならないとして、すでに成立していた二九年度予算を実質上組み替えた「実行予算」で約一億三〇〇〇万円の歳出削減をはかり、翌三〇年一月の金解禁に備えた。地方にもこの実行予算を指令し、大半の起債は不認可とした。
 福井県でも、産業道路事業は事実上中止となり、九月三〇日に既定二九年度予算額六八一万円余を一割二分節減した五九三万円余の実行予算が参事会に内示された。と同時に、県は市町村に対して市には七分五厘、町村に対しては五分の節減をはかる指標を設定した実行予算の作成を訓令した。県、市町村をあわせて二〇〇万円に近い、土木を中心とした起債事業が中止またはくり延べになった(『大阪朝日新聞』29・8・17、10・1、2)。
 浜口内閣は、こうした事態を「経済国難」に対処するためのものであるとして、公私経済緊縮運動(内務省)と教化総動員運動(文部省)をおこして国民の協力を求めた。教化総動員運動は目標に「国体観念を明徴にして国民精神を作興すること」、「経済生活の改善を図り国力を培養すること」を掲げ、公私経済緊縮運動との緊密な連携を強調した。日常生活における天皇や祖先への崇拝を強めることと、消費生活の簡素化や国産品の愛用を結びつけようとしたのである。
 福井県では九月一日、「福井県公私経済緊縮委員会会則」(県告示第三四七号)を公布して、小浜浄鉱知事を委員長、各界代表者八〇名を委員とする第一回委員会を同月一二日に開催した。また、二四日には県下八六の教化事業団体によって「福井県教化事業連盟」の発会式をあげた。
 両者とも、知事以下の県官や学者を動員した講演会や懇話会・映画会を県下各地で開催し、ポスターやチラシを配布し、下部の組織化をはかった。とくに、公私経済緊縮委員会は県下の多くの市町村に設置され、申合規約や実行細目を決めていた。これらの運動はあまり盛り上がらなかったが、三〇年二月までに国債償還資金などへの献金が一万二〇〇〇円をこえたことや、その運動方法がのちの国民精神総動員運動や大政翼賛運動などの民衆動員方法の原型となったところに特色があった(福井県『公私経済緊縮施設概要』)。
 三〇年二月の総選挙で大勝をおさめた浜口内閣にとっては、こうした経済改革を実行するうえにも、一月にはじまっていたロンドン軍縮会議を成功させることが必要だった。浜口内閣は、若槻礼次郎を首席全権として、大型巡洋艦・補助艦の対英米比率七割でこの会議に臨んだ。六割を要求する英米を譲歩させ、実質的にはほぼ七割の線で妥協がなった。そして軍縮条約は、七割の面子にこだわる海軍軍令部が執拗に反対していたのを内閣が押し切るかたちで成立した。
 そのためこの条約の批准にさいして、野党の政友会は、統帥権干犯のおそれがあるという政党内閣制を否定するかたちで問題にしたため、軍部や右翼の政治介入に絶妙の武器をあたえることになり、昭和戦前期の歴史に大きな禍根を残すことになった。一〇月に条約が世論の支持のもと枢密院で可決され、難産の末ようやく正式に批准された。しかしその翌一一月には、浜口首相が東京駅で右翼の一青年に狙撃され重傷を負い、それが原因となって翌三一年四月、総辞職に追い込まれた。その四か月後に浜口は死去し、政党政治はまさに重大な危機をむかえた。



目次へ  前ページへ  次ページへ