武田氏の家臣のうちで文芸にかかわった者としては、国信・元信の重臣で、在京中に和歌会に列したこともある粟屋賢家(宗菊)の子の左衛門尉親栄が有名である。文亀元年(一五〇一)五月二十五日に初めて実隆を訪ねて以降、実隆から和歌の指導を受けたが、とりわけ『源氏物語』を好み、同年六月から講義を聞き、ときに帰国することもあったがともかく永正元年七月に五四帖全部を聞き終え、二十首歌会に列席した(『実隆公記』、『再昌草』文亀四年七月条)。親栄は歌論の書「愚問賢注」と「八雲御抄」や『源氏物語』とその系図を入手したし、注釈書も所持していたかもしれない。
三条西実隆から別れを惜しまれながら永正元年九月に帰国した親栄は、二年後の永正三年七月に、宿敵一色氏征討のため丹後へ出陣し、十一月に『源氏物語』箒木巻の注を求めた。これに対し実隆は、「陣中不相応の儀か、一笑」と返事した(『実隆公記』同年閏十一月六日条)。明けて永正四年六月親栄は敗死した。その百日忌に実隆は、『源氏物語』に執心した親栄に思いをはせて、「むらさきの詞にそめし心こそわすれかたみの身をくだきけれ」などと「なむあみたふ」の六字の名号歌を詠んで追悼したし(『再昌草』永正四年十月条)、三回忌にも十五首歌を回向した。これほどまでに実隆の心に残ったのは、親栄が公家には「及ばぬ和歌のことの葉」と歎きながらも教養を高めていった、そのひたむきな姿に心をうたれたからであったろう。なお親栄は医術の心得もあり、実隆の脈をとり、実隆が意外に体が弱かったので良薬をすすめたし(『実隆公記』文亀元年閏六月二十一日条)、また馬療治の書「養馬略抄」を所持していた。
粟屋党には、親栄の子で、実隆邸の歌会に列して詠草の批判を求め、後光厳院宸筆や同詩歌一巻を実隆の孫実世に贈り、十種香を催し、また山科言継を訪問して鼓を打った勝春や、永禄年間(一五五八〜七〇)に連歌会を張行し猿楽を好んだ勝久、また弘治年間(一五五五〜五八)に駿河の今川義元のもとに身を寄せ諸氏の和歌会に列席した「若州武田内牢人」の左衛門尉らがいるが(『稚狭考』、『言継卿記』弘治三年正月十三日条)、最も注目されるのは元隆である。 |