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第六章 中世後期の宗教と文化
   第四節 戦国期の文芸
     二 武田氏の文芸
      家臣団の風流
 武田家臣のうち早い時期に現われ京都で活躍した人に、信賢・国信・元信の三代に仕えた京都雑掌の寺井賢仲がいる。在京中の日常、賢仲は公家・歌人・幕府吏僚・好士や連歌師宗祇・兼載らと連歌会や歌会に同席し、自らも連歌会を開き、『新撰菟玖波集』に付句三句を採られたほどの好士であるが、長享元年十二月に賢仲の私宅八か所・一三棟が焼けたことからみて(『蔭凉軒日録』同年十二月十四日条)、かなり富裕であり、武田氏の文芸の展開はこのような経済的基盤に支えられていた。
 文明九年八月に賢仲は小浜に在り、上洛途中の歌僧正広を迎えて歌会を開いたこともあるが(「松下集」一)、在京の場合が多かった。しかし晩年に帰国し、実隆に「かげふかくのこる老木の山桜世にもしられずくちやはてなん」と贈ると、実隆はこれに和して「くちずして花にさかなん老木こそ昔の春の色香をもしれ」と返歌した。永正十二年の暮に賢仲が死に、その百日忌に連歌師宗長が追善歌を勧進したとき、多くの都人は品経歌を贈って哀悼の意を表した(「為広詠草」)。
 賢仲のほか、久村宗家は実隆の『源氏物語』の講釈を聞き和歌の指導を受け、『古今和歌集』『後拾遺和歌集』『二八明題抄』『拾遺和歌集』などをもっていて、勅撰和歌集に心を寄せていたことが知られる。また奉行人内藤膳高は、実隆に「二十代集」の外題を書いてもらい、同じ奉行人の内藤国高は、夢想法楽五十首の歌題や法楽歌を所望して贈られた。さらに吉田氏家は、実隆に物を持参し、その包紙に一首の和歌を書きつけていたし、武田雑掌の吉田氏春は、実隆の和漢聯句や歌会に同席し、草子の銘や『古今和歌集』の書写を依頼して贈られ、『源氏物語』や『伊勢物語』の講釈を聞き、歌題や和歌を得て歌会を開いた。氏春はまた八歳のわが子長寿丸を実隆に入門させ、一〇歳になった長寿丸が初めて短冊を書いたとき実隆にみせたし、飛鳥井邸に蹴鞠会を興行したこともある。このほか南部大蔵丞は自詠の和歌を実隆にみせ、畑田左馬允は二十首歌を詠んで実隆に批評を求めようとしていた。この左馬允が死没したことを知った実隆は挽歌を詠んでいる(『実隆公記』、『再昌草』)。さらに武田雑掌の清水忠勝は、山科言継の月次連歌会に列席したことがある(『言継卿記』天文十七年二月二日条)。このように、若狭の武田氏家臣の文芸活動には目をみはるものがあった。
 こうした武田家臣の文芸活動のなかで、大野藤左衛門の動きには考えさせられるものがある。藤左衛門は実隆の『源氏物語』の講義につらなり、武田元信の歌会に列座し、実隆に頼まれて『源氏物語』や『河海抄』を写し、『伊勢物語』二本の外題を求めて贈られた。永正八年十二月に入道して紹桃と号し怡雲斎と称したとき、
   山ふかくもとむる道ぞ世のうきをこりつむ年のあらましの身は
との一首を実隆に贈った(『再昌草』永正九年正月条)。のち上洛して実隆邸を訪れて往時を語り、武家歌人として知られた岩山道堅らと談話し、永正九年六月には『詠歌大概』の講義を聞き、また安芸厳島から一首を贈った。武田氏の奉行人内藤国高は紹桃が在京しているかどうかわからないというが(「出家仮名記」永正十三年四月紙背文書)、「世のうき」を身に凝り積んだ紹桃は、武士を捨てて山深く道を求め隠者となったのではないだろうか。戦国武士のなかにはこうした生き方をした者もあっただろう。



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